夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ⑤

2009-02-20 21:37:32 | 
    第5章 『長崎市 永井隆記念館』を訪ねて


私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
昭和37年であった。

幼年期の5歳頃、ラジオから『長崎の鐘』の歌が流れ、
幼児の心なりに悲しみを覚えたりし、
この後には母に手を引かれて映画の『長崎の鐘』を観たりしたのである。


このような思いは、私はこのサイトに於いて、
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。 】と題して、
2007年8月27日で投稿しているが、えて今回は再掲載をする。

【・・
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。

昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。


♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。


♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。

私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井 隆は無知であった。

その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。


♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで転記させて頂いているが、著者の永井 隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。


国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、
長崎にも原子爆弾を投下した。

思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。

こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。

私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。

・・】


このような思いもあったりしたが、
今回の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを学び、
少なからず衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
ラジウムの放射線で白血病となり、
昭和20年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。


http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/nagai/nagae01.html


館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入して、
ホテルで深夜の2時半過ぎまで読み、敬意を重ねたのである。



《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ④

2009-02-20 17:15:51 | 
    第4章 『長崎原爆資料館』を訪ねて


『長崎歴史文化博物館』を訪ねた後、
私は市電の浜口町駅を下車した後、坂道を登りながら、『長崎原爆資料館』にたどり着いたのである。

私は昭和19年9月に東京郊外の調布市で、
農家の三男坊として生を受けた身である。
そて、かの世界第二次大戦のひとつである太平洋戦争については、
学校の教科書はもとより、映画を観たり、小説、随筆、歴史書を読んだり、
或いは戦地に行き、帰還された親戚の叔父さん、
近所の小父さん達からも教えて頂いた・・。

このような私は二十歳過ぎた頃からは、
沖縄の過酷な地上戦が事実上終った日の『沖縄慰霊の日』となる6月23日,
『広島』の8月6日,そして『長崎』の8月9日に原子爆弾が投下された日、
敗戦となった8月15日には、黙祷したりしている。

そして、私は日本人のひとりとして、
沖縄には本土の防波堤のように犠牲になった人、
広島、長崎には被爆され亡くなった人、
少なくともこのような人々には鎮魂の思いが心の底にある。

このような心情の私は、この沖縄、広島、長崎の地には、
軽々しく観光気分では訪れるのを長らく避けてきたのである。
50代になり、初めて沖縄を訪れ、広島、長崎はここ2年前であったりしたのである。


長崎にある『原爆資料館』は、今回初めて訪れた・・。

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/museum/

展示品の中で、原爆投下までの時系列となった表を読んだりした。
この表を読みながら、私は無知であったことを恥ずかしく思いながら、
ノートに転記したのである。

【・・
1945年5月31日
原爆投下に関する諸問題を検討する為K『暫定委員会』で、
投下に際して、日本に事前の警告を行わないことに合意。

6月11日
フランク委員会の報告で、
戦後世界における核軍備競争の恐れを危惧。

7月16日
ニュー・メキシコのアラモゴート砂漠で、人類初の原爆実験成功。

7月17日
ポツダム会議はじまる。
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。

7月24日
トルーマン大統領、ソ連のスターリンに《新兵器開発》を告げる。

7月25日
トルーマン大統領、原爆投下指令を承認。

8月6日
広島市に原爆投下。

8月6日
トルーマン大統領、ポツダム会談の報告り中で、
『何万何千ものの米国青年の生命を救う為に原爆を使用して』と述べた。

・・】


こうした内容の中で、特に無知であったのは、
【・・7月17日
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。
・・】
であった。

私は国際間に影響をもたらす国家になれば成る程、
国益に基づいて、怜悧な政策と戦略を実行するのは知っていたつもりであるが、
改めて学んだのである。


この後の私は、この館が発行した『長崎原爆資料館 学習ハンドブック』を読んだりし、
質疑応答のような文書を心の中で呟きながら、読んだのである。

【・・

なぜ長崎に落とされたの?


空襲の被害をあまり受けていなかったこと(原爆の威力を調べるのに都合がいい)、
造船所や製鋼所、兵器製作所などの工場が集まっていたことなどが
理由として考えられます。



日本に落とそうとした理由は?


アメリカが日本に原爆の投下を決定した理由として、
多くの開発費や労力を投入して完成させた原爆を実際に使用し、威力を調べたかったという説、
戦争が長引いて日本上陸作戦を行うと、多数のアメリカ軍の兵が犠牲になるので、
早く日本を降伏させるために使用したという説、
ソ連に対する戦争後の立場を優位にするために使用したという説
などがあります。

・・】


こうしたことは私は歴史書などで学んできたつもりであるが、
このようなことを若い小中学の生徒が読んだ時、どのような思いで感じるか、
或いはアメリカの少年・少女が知った時、どのように感じるか、
このように思いを馳せたりすると、
私は胸が熱くなったのである・・。



《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ③

2009-02-20 13:29:58 | 
    第3章 『長崎歴史文化博物館』を訪ねて


長崎市内の諏訪の丘にある『長崎歴史文化博物館』を訪ねたのは、
春の陽気につつまれた12日の午前のひとときであった。

私が観たのは『歴史文化展示ゾーン』だけであり、
この他には『長崎奉行所ゾーン』など含め数多くの情報コーナーもあるが、
二時間半ばかりで『歴史文化展示ゾーン』に魅せられて、
観たりしながら、遙かかなたの先人の偉業に思いを馳せたりしたのである・・。


http://www.nmhc.jp/sisetsu/rekishi_tenji/index.html#01

私は日本が遣唐使を盛んに行われた中期に於いて、
五島列島から中国をめざして、出航された状景を思い浮かべたり、
中国からも天慶8年(945年)の頃には、長崎半島の御崎に来航したり、
その後に貿易が行われ、長崎の市内に唐人屋敷まで出来るように、
日中の貿易の隆盛の時に思いを重ねたりした。

そして、西洋からも、天文13年(1543年)に於き、
ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が伝来した5年後には、
イエズス会士のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来日し、
初めてキリスト教を伝えられた、と改めて学んだりした。

そして翌年になり、早くもポルトガル船が平戸に入港して、
ポルトガルとの貿易時代が始まったが、
この間の前後には、薩摩の島津、平戸の松浦にしても、
貿易は互いに富をもたらすので良いが、キリストの布教は困る基本政策があったので、
混迷期の中、横瀬浦そして福田と港を移転しながら、最終的には長崎港となった。

そして、その後はオランダとの貿易も始まり、
貿易品の数々の品はもとより、医学、造船、航路学、大砲などを含め、
ステンドクラスに至るまで、数多くを日本にもたらしたのである。

江戸時代に朝鮮との日朝外交の一端として、
『朝鮮通信使』交流があり、対馬を基点とし、江戸まで来日された。


このように海外の異国との交流が行われ、
このコーナーだけでも数多く多彩に展示されていたのである。


私は館内の展示品は、まぎれなく歴史のかたみの品々として拝見していたが、
70歳前後の細身の男性が私に近づいてきたのに、気付いたのである。
『よろしかったら・・私の知っている限り・・
補足させて頂いても・・よろしいでしょうか・・』
と私に云った。

『私は歴史には興味がありますが・・
何分、つたない雑学しか持ち合わせていませんですので・・
ご指導を受けたく・・』
と私はその男性に云った。

この後まもなくして、
このお方はボランティアとして館内の案内と説明をされている方と知ったのである。

そして私はこのお方と、信長時代から明治の初期頃までの、
キリスト教の日本の布教の目的、状況の変化を談話したのであった。
或いは西洋のオランダとの長年の交流の結果、
日本に多々の分野に於いて,成果があったことなども、
話し合ったりしたのである・・。

私はこの館を辞する時、
このお方に丁重にお礼の言葉を重ねながら、有意義な時が過ごせた、
と感謝しながら、坂道を下ったのである。


                             《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ②

2009-02-20 10:59:57 | 
    第2章 街中を散策すれば


長崎市内の観光めぐりをする時は、私は路面電車の市電を利用したり、
独りでトボトボと歩き廻ったりしていた。
首からデジカメを掛け、ときおり撮ったり、
斜め掛けしたA4のノートの収納できるバックから、
おもむろに立ち止まり、メモ書きをしたりしていた・・。

長崎の市電はたった百円で、風光明媚な各地を訪れるのに利便性がある。

http://www.naga-den.com/kikaku/logo/rosen.pdf#search='長崎 路面電車 案内図'

乗客の殆どは市民の方たちと思われ、特有の言葉、アクセント、しぐさや、
そして表情を聞いたり見たりできるので、
これ以上の貴重な体験はないと、私はいつも旅先で学んだりしている。

そして、各施設の館内の方と談話したり、
街の中を散策したりすると、ときには思いもかけない状景にめぐり逢え、
私は独りで微笑んだりしていた・・。

長崎歴史文化博物館を辞した後、市電の桜町駅に向う折、
住居の一括にさりげなく『斉藤茂吉 寓居の跡』と明記された石碑に出会ったりする。
私は正直なところ和歌にも無学であるが、
歌人の斉藤茂吉氏がどうして長崎の地で過ごされたの、
と思ったりしてしまうのである。
そして、ホテルに戻った後、少し調べた限りであるが、
大正6年に氏は長崎医学専門の教授として、在住3年少しばかりお住まいになった、
と知ったりしたのである。


この後、長崎原爆資料館を訪れた後は、長崎医大の周辺を散策し、
風もくな春のような陽気の中、亡くなわれた永井隆氏を偲んだりして、
歩いたりしたのである。

そして、永井隆記念館に向う途中で、サントス通り、と明示された道を歩き、
どうしてなのと思いながら、歩いたりしたのである。
これもホテルに戻った時、恥ずかしながら本で調べたりしたのである。


このように街中をぼんやりと歩いていても、
数々の遠い昔から、或いは敗戦後からの人々の営みのかけらが、
突然に舞い降りて、私は戸惑いながら微苦笑し、
歩き廻っているのである。




                             《つづく》




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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 【2009.2.11.~2.19.】 ~歴史のかたみの中で~  ①

2009-02-20 07:40:06 | 
    第1章 大浦海岸にあるビジスホテル


長崎駅の中心から少し郊外にあるビジネスホテルの『ロワジールホテル』に、
到着したのは11日(水曜)の夕方であった。

http://www.solarehotels.com/loisir/hotel-nagasaki/


家内がこのホテルを選定したのは、
齢を重ねた78歳の母が初めて長崎を訪れるので、
グラバー園、大浦天主堂が近くにあるので何かと利便性がある上、
館内にある展望の大浴場からは街の夜景も観られ、
格安な宿泊代であり、4泊しても年金生活の私でも気楽ホテルでもあった・・。

そして、私達3人の北海道の旭川市、沖縄の那覇市などの市内見物の場合も
市内のビジネスホテルに宿泊して、ゆっくりと市内観光をした成功体験があったからである。
もとより、私達3人の滞在旅行の折は、
私は殆ど独りで観光先などを歩き回るタイプであるので、
家内と家内の母はツィンの一室で、
私は独りでツィンの別室で過ごすこととしたのである。

今回のこのホテルに4泊した滞在した時も、
私は到着した翌日から、独りで『長崎歴史文化博物館』、『原爆資料館』、『永井隆記念館』、
翌日には『大浦天主堂』、『グラバー園』、
その翌日は外海(そとめ)海岸を定期観光バスツアーを利用して、観たり思索を重ねたのであった。


朝食は11階の展望レストランに於いて、
バイキング形式の料理を頂きながら、『水辺の森公園』をまじかに観たり、
対岸の造船所、そして小高い美麗な稲佐山の情景を眺めたりしたのである。

夜になれば、大浴場から街の灯りを誉め、
そして私の部屋からは『大浦天主堂』の塔付近にある十字架のふちどりが、
うっすらと浮びあがっている光景が観えたのである。


私は夜の大半は、ビールを呑んだり、煎茶を飲みながら、
読書をすることが多く、
そして眠くなったら寝る、ぐうだらな日を過ごしたのである。

羽田空港で買い求めた総合月刊雑誌の『文藝春秋』、
長崎歴史文化博物館では江越弘人・著の『長崎の歴史』(弦書房)、
永井隆記念館に於いては永井隆・著の『長崎の鐘』(アルバ文庫)、
遠藤周作文学館では『母なる神を求めて~遠藤周作の世界展~』(アートディズ)、
そして、持参した文藝季刊雑誌の別冊新評『遠藤周作の世界』(新評社)などを読んだりしたのである。

そして長崎を離れ雲仙に向う寸前、
市内の本屋で遅ればせながら遠藤周作・著の『深い川』(講談社)を買い求めたのであった。



                             《つづく》




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