夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

NHK連続テレビ小説『おしん』が再放送と知り、過ぎ去り日々に私は思いを重ねて・・。

2013-01-04 15:07:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
一昨日、たまたまNHKテレビを視聴していた時、
NHK連続テレビ小説『おしん』が再放送される、と知った。

過ぎし日の2011〈平成23〉年4月4日の読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
私は初めてNHK連続テレビ小説『おしん』について学んだりした。

この基幹ネットの【新おとな総研】というコーナーがあるが、この中に【あの日あの時】と題された連載があり、
偶然にこの記事を読みながら、過ぎ去り日々に思いを重ねてた。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
     1983年(昭和58年)4月4日  NHK朝の連続テレビ小説「おしん」がスタート。

明治30年代、山形県の小作農の家に生まれた女性が、
貧しさやいじめ、関東大震災や戦争という時代の荒波をくぐって生き抜く姿を描いたNHK朝の連続テレビ小説「おしん」。

物語は、脚本家の橋田寿賀子さんが、
「米一俵で奉公先に行かされ、その後、女郎に売られながら逃げ出し、
ミシン技術を学んで商売を起こして、今、子供たちと幸せに暮らしている」
という匿名の女性からの手紙を基に高齢者の苦労話を募って書いた。

「戦争も日本の経済成長も女が支えてきた。
女が主人公の歴史を書きたかった」と橋田さん。

「おしん」役は、奉公先などで苦労する少女時代を小林綾子さん、
16~45歳を田中裕子さん、
子供たちとともにスーパーを出店する50~83歳を乙羽信子さんがそれぞれ演じた。

この年11月には最高視聴率62.9%、
平均視聴率52.6%(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区)という高視聴率を記録した。

さらに、海外でも現地語で放送され、異例の評判を呼んだ。
中国や東南アジアでは特に人気が高く、
中南米、中東、東欧なども含め60か国以上で放送されたほか、リメーク版まで制作された。

国内では、軽薄短小が広がった1980年代にあって、
高齢者を中心に我が身や両親らの苦労を思い起こしながら見た人が多かったが、
日本はこの2年後からバブル時代に入っていく。(稲)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


NHK連続テレビ小説『おしん』が放送が開始された当時の私は、
中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めて、情報畑のシステム関係を担当していた。
無念ながら自社の業績が悪化して、コンピュータは委託処理をしていたのであるが、
自社導入で経費削減を図れ、と首脳部のひと言で、奮闘し始めていた頃であった。

そして、特に秋になると、睡眠時間を削りながら勤務していたので、
テレビ・ドラマの『おしん』は視聴していなかったが、
世の中はNHK連続テレビ小説『おしん』の熱狂されたブームで少し知った程度であった。

私はシステムを困苦しながら、何とか翌年の6月に軌道に乗せたが、
運営と一部開発業務も重なり、多忙の時を過ごした。

この後、あるレコード会社との販売委託などで、奮闘を重ねた後、
ある旅行会社の冬の蔵王の樹氷、山寺の鑑賞、そして最上川の舟下りの企画に魅せられて、
私たち夫婦は初めて団体観光ツアーに参加したのは、1986(昭和61)年の2月下旬だった。

この旅の中で、冬の『最上川の船下り』をしたのであるが、
この地域も『おしん』ブームの余情で、乗船前に売店で、『おしん』に関する商品が売られていた。
私は、これ以上の深い意味合いを知らなかったのである。


たまたま2011〈平成23〉年の2月中旬、私たち夫婦は、
東北地方の山形県の銀山温泉に滞在し、その後は最上川の船下りの旅をした。

私たち夫婦は国内旅行は共通趣味のひとつであるが、
銀山温泉は未知の世界であり、その前年の夏過ぎ、
雪舞い降る時に銀山温泉に行って観たいわ、と家内は私に言ったりした。

そして私たちは、雪が舞い降る確率の多い2月の中旬を選定し、
東京駅より大石田まで『つばさ』を乗車し、
銀山温泉に4連泊して、街並み、そして付近を散策をした。
               
               
その後は、『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルに1泊宿泊し、
帰路は新庄駅より『つばさ』で帰京する5泊6日となった。


銀山温泉の『旅館 永澤平八』に宿泊滞在をしていた時、
談話室とロビーを重ね合わしたような大きな囲炉裏、隣室は和室となり、
色々な伝統工芸品などが置かれ、壁際には、著名人の色紙、写真が掲げられていた。
           
この中に、乙羽信子さんが銀山温泉の中心に流れる川の橋のふもとで歓迎を受ける2葉の写真、
そして『旅館 永澤平八』の女将との記念写真があった。
私はフロントの男性に説明を受けて、『おしん』の放送が終った後の熱狂ブームの中、
乙羽信子さんが招待を受けて、銀山温泉に來訪された、と知ったのである。

この後、私は『おしん』の概要も無知であったので、家内に教えてもらい、
初めてドラマの銀山温泉の関連を知ったのである。


この後、『最上川の船下り』は、25年ぶりとなったが、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に言ったりしていた。

この時の私の心情を思い馳せれば、下記のような状況であった。


私たち夫婦は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。

この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。

船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。

案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、この舟は出航した。

私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。

そして、案内人兼船頭さんの『真室川音頭』、『おしんの唄』などを四曲の唄声に、手拍子したり、
或いは周辺の案内を聴いたりしていると、時を忘れるかのように過ぎていく・・。
まもなく、舟下りの降船場に着岸し、私達は大きな建物の最上川リバーポートへの階段を上がった。
             
そして、一角に乗船前に撮影して下さった写真が掲載されていた。
私は夫婦の記念写真に瞬時に最適と思い、千円を支払った。
そして、私達夫婦としてお互いに微笑んだ珍しい記念写真で、
私は家内に見せながら、良き記念写真となったねぇ、と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。

この後、新庄市に戻った後、ある館内で瞬時に魅了されられた展示品があった。



帰宅後、この旅の余韻か私は『おしん』に関して、少し興味を持ち、
ネットで色々と検索し、【YouTube】の動画のひとつのに、圧倒的な感動をして、思わず涙を流れてしまったのである・・。

もとよりテレビ・ドラマの『おしん』の中のひとつの放送された内容であり、
「おしん」が米一俵で奉公先に行くことになった当日の朝、
母親、祖母たちと別れ、そして寒い残り雪の最上川を筏(いかだ)に乗り、遠い岸辺の丘に父が見送るシーンであった・・。

画面の最下段にあるスーパーはスペイン語が明記されているので、
スペインか南米の諸国でテレビ放送されたものかしら、と思ったりし、
どの国も貧しい人が多い人たちがいるので、このドラマに共感をする、と深く感じたりした。

もとより日本に於いてでも、1955(昭和30)年の頃までは、
私も含めて生活に困窮した人たちが多かったのである。


私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

祖父が生前の時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
祖父が亡くなる直前、初めて国立の中学校に入学できて、周囲の期待に応(こた)えた。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。

こうした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。


そして祖父が亡くなった後は、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏でも・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒りような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。

この間の私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

この頃、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
 ・・
【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。


このような私の小学3年生過ぎに体験したこともあり、
特に『おしん』のこのシーンは私の心に圧倒的に心ゆすぶられ、私は熱い涙があふれたのである。

そして、改めて脚本家の橋田寿賀子さんに、敬意を重ねている。
今回、NHK連続テレビ小説『おしん』が再放送と知り、特に若い方たちに、
日本の1955(昭和30)年の頃までは、生活に困窮した人たちが多かったことを、
このテレビドラマから学んで欲しい、と念願したりしている。

そして昨今はデフレ烈風で経済は低迷して、成果は短期に求められる過酷な中で、
働いて下さる諸兄諸姉の一部の中で、いじけずくじけず颯爽と過ごしてほしい、と無力な私は思ったりしている。

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