ようやくマンションに辿(たど)り着いた篠口彰夫(しのぐちあきお)は、ドアを閉じた瞬間、崩れるように残業で疲れた身体を玄関フロアーへ横たえた。瞬間、これが酒の酔いなら最高だろうな…と、瞼(まぶた)が潤んだ。そして、それもつかの間、篠口は眠気に俄かに襲われ、そのまま深い奈落の底へと沈んでいった。
牛乳配達員が表の受け箱へ瓶を入れるガラス音が微かにし、篠口は目覚めた。窓からは薄明るい翌朝の光が差し込んでいた。ああ・・昨日は一睡もせず仕事に忙殺されていたんだった。のんびりと決裁印を押してふんずり返っていたいよ…と、篠口は、ぼんやりと思った。
篠口は、いつの間にか会社に毒されていたのかも知れない。
「内示が出たよ、篠口君、来週から君は営業一課長だ、おめでとう」
部長の坂巻静一(さかまきせいいち)に言われたときは小躍りしたい気分の篠口だった。あれから二年か…と、篠口は思った。よくよく考えれば篠口は営業第一課課長という巧妙な餌で釣られた小魚だった。気分は日々、萎(な)え、まるで少しずつ毒を飲まされて弱る魚に思えた。
そんな篠口にも工藤謀(くどうはかる)というただ一人の心を許せる係長の部下がいた。
幸い、この日は創業記念日で篠口は会社を休めた。緩慢に立ち上がった篠口は、玄関へ脱ぎ散らかした靴を揃えると洗面所で顔を洗った。鏡の奥には、無精髭の窶(やつ)れた自分がいた。篠口にはその理由が分かっていた。ノルマ達成のために、ここ数日、無理を承知の日々が続いていたのだ。慰めといえば工藤と屋上で交わす三十分ばかりの会話だけだった。創業記念日で休めたこの日も、篠口にはまったく予定など立っていなかった。まずは疲れを取ろう…と、篠口は思っていた。次の日からは、またノルマを熟(こな)さねばならない。営業第一課長として、課員達を叱咤激励(しったげきれい)するのは正直なところ、もう嫌だった。だから、自ら残業で工藤と駆け回り、営業純益のノルマを達成しようとしていたのだ。実のところ、会社はそこまで強いてはいなかった。というのも、会社は営業第一課で支えられていたからである。二課、三課は名ばかりの存在だったのである。