その日は、どうにかこうにか社長としてのスケジュールを熟(こな)し、篠口が疲れた身体を引きずるようにマンションへ戻ったのは夜の七時過ぎだった。工藤へ携帯を入れる気持の余裕もなく、社長としての時間を費やして帰宅したのだった。正確には確かに一度、トイレでかけようとしたことはあった。だが、「社長! どうかされましたか?!」と、お付きに入口の外から声高(こわだか)に叫ばれればそれも、ままならない。その後も車付きでの移動で、ようやくマンションへ着き、解放されたのだった。
「工藤か? どうだった?」
マンションのドアを閉じると、篠口は、いの一番に携帯を握っていた。
「どうって、恐らく課長と同じ展開だったと思います」
「ということは、専務の一日か?」
「はい…」
「そうか…。実は俺も社長の一日だったんだ」
しばらく二人は話したあと、明朝七時半に会社前で落ち合うことにした。少し早めにしたのは、他の社員達が出勤する前がいいだろうと判断したからである。
翌朝七時、篠口は玄関チャイムで起こされた。うつろな目でドアレンズを覗(のぞ)くと、屈強なSP(セキュリティポリス)風の男が2名と手提げの黒カバンを持った背広服の若者が一人、立っていた。
「総理、お迎えに参りました」
「えっ?! もう一度、お願いします。どちらさまでしょう?」
「嫌ですよ総理、ご冗談は。私ですよ、秘書官の藤堂です」
「藤堂?」
篠口には、まったく心当たりがなかった。それより、総理と呼ばれたことに篠口は仰天していた。幸い、朝食も済ませて出勤する矢先だったから、すぐ出られることは出られた。
「はい! 今、出ますから…」
よくよく考えれば、首相が公邸にいないのが妙だが…と、思えた。だがまあ、歴代首相の中には自宅通いされる人も結構いるからな…と、頷(うなず)いた。それはそれとして、篠口は革靴を履くと、慌ててドアを出た。