どこから入ったのか、一匹の蝉が、木本の椅子の上にいた。その蝉は少しずつ椅子の上を時計回りに円弧を描いて動いていた。下田は恐る恐る、木本の椅子へ近づいた。すると、やはり一匹の蝉が椅子の上を時計回りに円弧を描いているではないか。まさか! とは思えたが、下田はそっと声をかけた。
「あの…キモさんですか?」
すると、蝉はそれに答えるかのようにミーンミンミンミンミーと小さく鳴いた。その響きは下田の知っている普通の蝉より明らかに低く小さかった。下田はすでに怖(おそ)ろしくなっていた。対面席の本郷は受話器を手にしたままその様子を眺(なが)めていた。
「キモさんの席に…蝉がいます」
『蝉じゃねえ! 俺だ!』
少し怒れた木本の声は声高(こわだか)になっていた。そのとき、編集室のドアが開き、編集長の垣沼荘一(かきぬまそういち)が入ってきた。その瞬間、下田の前の蝉はスゥ~っと跡形もなく消え失(う)せた。
「おい! どうした! 挨拶がないなっ」
「おはようッス!」「おはようッス!」
垣沼の声に促され、下田と本郷は放心のまま浮ついた声を出した。
「ははは…なんかおかしいな、今朝は! まあ、いいが…」
垣沼は深く追求せず、二人も奇妙な出来事のことは黙秘した。
「おっ? 木本がいないな! まだ来てないのか?」
「ああ、木本さんなら、体調が悪いとかで今日は来れないと連絡がありました」
「そうか…。俺にドヤされるのを恐れて、ズルじゃねえだろうな、ははは…」
木本にはその声が聞こえている。ある意味で垣沼の言うことは図星だったから、木本は見えないことでホッとした。だがその実(じつ)、この先が不安だった。
「よし、下田! 木本の原稿、お前が書け! あいつを待ってりゃ、一年かかる!」
決断したように編集長の垣沼の声が飛んだ。木本はクソッ! と思った。徹夜の挙句、やっとの思いで完成した手渡すはずの原稿は、木本の机の上に置かれていた。
「はい!」
下田は恐る恐る木本の机を見ながら小さく返事した。