個人的な偏見(へんけん)が間違いを犯すことがある。自分では自信作だと思っていても、他人から見ればそれほどでもなく、むしろ愚作と思えるような場合だ。どうですっ! 見て下さいっ! 聴いて下さいっ! と展示した絵画や、自信作の曲が、今一、多くの人の目や耳に馴染(なじ)まないのが、その具体例だ。作り手は受け手の感性を重んじねばならないのだが、時として偏見が間違いを起こさせる。受け手を重んじることは、作る側、送り手、すなわち創作を続ける人々にとって、最低限のルールとなる。
とある美術館である。展示された作品を鑑賞する一人の中年紳士が佇(たたず)む若者の前に掲(かか)げられた額淵の絵を見て、立ち止まった。
「ほうっ! この絵、なかなかのものですねっ! よく書けてる…」
「…そうですかっ? これはダメでしょ」
「いや、なかなかのものですよ、これはっ!」
「僕は左横の絵が自信作なんですが…」
「えっ? あなたは…」
「申し遅れました。描(か)いた者です…」
若者は恥ずかしげに、小さく言った。
「ほう! あなたが…」
「ええ、まあ…」
「だったら言いますが、これが断然いいですよ、断然これがっ!」
「そうですかぁ~? 僕は左横の方が、お勧(すす)めなんですがね」
「…そっちですか? そっちは、今一、いただけません…」
「いただけないって、放っておいて下さいよっ! 描いたのは僕なんですからっ!」
「観るのは、私ですっ!」
双方の主張は、ともに間違ってはいない。ただ、自信作に対する見解の相違が二人にはあった。自信作とはこのように、実に曖昧模糊(あいまいもこ)なのである。
完