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尖閣諸島を守ってきた日本人(後編)

2023年03月16日 | 日本
国土が尊いのは、それを守ってきた人々の努力の積み重ねがあるから。

(かつての尖閣諸島で240余名が定住していた)
「先人たちへの感謝」と言えば、尖閣諸島で事業開拓を図った古賀辰四郎の努力も忘れてはなりません。

今は無人島になってしまった尖閣諸島。その中の最大の島、魚釣島(うおつりじま)には、かつて3千余坪の岩山を切り開いた広大な平地に事業用の建物が並び、240余名、戸数99戸が定住していました。およそ60ヘクタールの耕作地を開墾して、穀物や野菜を植え、食糧の自給体制を築いていました。沖縄県の実業家・古賀辰四郎による開拓事業の成果です。

明治28(1895)年1月14日、古来より無人無主の島であった尖閣諸島を日本政府が領有宣言をすると、翌明治29年9月、古賀は魚釣島他3島を借り受け、開拓事業に着手しました。

明治30年3月、古賀は遠洋漁船(帆船)を建造し、これによって出稼ぎ移民35名を送り込みました。翌31年には大阪商船の汽船・須磨丸(1600トン)を借り、自ら移民50名を率いて渡島しました。

当初、有望な事業と見なされたのは、アホウドリの羽毛採取でした。羽毛布団などの用途に、神戸や横浜の外人商人に好評でした。しかし、採取量を現場の作業者任せにしていたため、乱獲によって、数年で採取量が激減してしまいました。

古賀は明治32年に単身上京し、動物学者の東京帝国大学教授・箕作佳吉(みつくり・かきち)博士に教えを乞いました。箕作博士は弟子の理学士・宮嶋幹之助を推挙し、宮嶋は現地調査の上、絶滅を防ぐために、採取量の制限を助言しました。

すでに伊豆大島の鳥島などではアホウドリの羽毛採取で巨万の富を築きながら、激減させてしまった前例などがあり、こうしたやり方は、古賀には目先の利益だけしか考えない愚行としか見えませんでした。宮嶋の助言に従って、6、7年捕獲量を抑えていると、アホウドリの数も復活してきて、安定的な量が採れるようになりました。

こうして、古賀は明晰な判断力に基づいた先見性で、尖閣諸島の事業開拓に取り組んでいったのです。
 
(アジサシ類の剥製事業、カツオ漁とカツオ節製造)
尖閣諸島開拓の7年目、明治37(1904)年には、カモメの一種であるアジサシ類の剥製事業を始めました。当時、欧米ではその剥製を夫人の帽子とするファッションが流行していました。ただ、剥製の職人を見つけるのが一苦労で、古賀は横浜で南洋帰りの剥製職人16人を雇い入れました。

明治39年には20余万羽、翌40年にはその2倍以上の取引に成長しました。また剥製製造の際にでる鶏肉から、油は機械油に、肉や骨は肥料にして売り込みました。

アジサシ類の剥製事業を始めた翌年、明治38年には古賀はカツオ事業を始めます。まずカツオ船3隻を内地において新造し、宮崎県より熟練のカツオ漁師と鰹節製造人10人を雇い入れ、魚釣島にカツオ節製造工場も建てました。

明治41年に古賀村を訪れた琉球新報主筆・宮田漏渓は、カツオの大群が数十キロの「魚道」をなし、その上では数万、数十万羽の海鳥が乱舞して、海中に突っ込んでは、カツオを追い回している様に驚嘆しています。この「魚道」は、魚釣島からわずか1~2キロしか離れていなかったために、一日4度もの出漁が可能であり、大漁の際には1万尾近くも水揚げがあった、と言います。

カツオ漁を始めた時に新造した3隻のカツオ船は、その年に襲った暴風で3隻とも破壊されてしまったので、翌39年には5隻を新造しました。古賀の事業才覚のスケールの大きさには驚かされます。

採れたカツオからはカツオ節を作ります。カツオ節に熟練した職人を雇ったので、市場からは高い評価を得ました。明治42年の大日本水産会主催の第一回カツオ節即売品評会で、古賀が出品した尖閣諸島産のカツオ節は二等賞銀杯を受賞しています。

(労働者の移入と汽船による往来)
こうして古賀の事業は順調に拡大していきましたが、当初は労働者の確保に苦労しました。なにせ、絶海の孤島、無人島に行くというのですから、はじめのうち応募してくるのは、仕事にあふれた一癖も二癖もある者たちで、驚くほどの多額の賃金を要求しました。

ところが、島での仕事に慣れると、労働は容易で、収入は多いと分かり、出稼ぎから戻った労働者が内地で吹聴したため、志望者が増えていきました。

明治33年からは、家族同伴も差し支え無し、としました。古賀は一時的な出稼ぎ労働者ではなく、現地に定住する移住者を求めていました。労働者が増えると、賄い婦など婦女子の仕事も増えていました。明治40年には「医師1名」を募集しています。

また契約期間が過ぎるとせっかく技術を覚えても内地に帰ってしまう年季奉公ではなく、「永久的労働者ノ移植」を目指して、明治41年には宮城県と福島県から7~11歳の子供たち11名を成人になるまでの契約で、連れてきました。移住者の一人に、山形県師範学校卒業生がいたので、教育の任にあてる予定でした。

また産物の輸送や人の移動のために、航海の安全も考えて、汽船を購入しています。明治40年には11回も汽船が回航しています。ほとんど月一回の頻度で、往来していました。

(「ますらおの かなしきいのち つみかさね」)
明治42年、古賀は尖閣諸島の開拓功績が認められ、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を授与されました。この章は教育、衛生、産業開拓などに功績のあった人を顕彰するもので、沖縄県では二人目の受賞でした。

古賀の友人で沖縄県出身の衆議院議員・御得久朝惟(ごえく・ちょうい)は、受賞を喜び、「尖閣経営の初めは、多くの人が危ぶみ、中には陰で笑いものにする者もいた」と沖縄毎日新聞に寄稿しています。それほどの難事業を、古賀は果断に取り組んできたのでした。

古賀村は最盛期には、240余名、戸数99戸が住んでいました。何枚かの写真が残っていますが、その集落の中心には10メートルほどの高いポールに、幅1.5メートルほどの大きな日の丸が掲げられています。遠くを通る船からもよく見えたでしょう。古賀の積極果断な尖閣開拓の姿勢には、自分は国境の島を開拓しているのだ、という使命感があった、と感じられるのです。

しかし、大正に入ると、突然、古賀村は消失します。これは巨大台風により、住居や生産施設などが破壊されたからではないか、と推察されています。こうして、15年ほどの繁栄の時期を終えて、尖閣諸島は再び、無人の島に戻ります。

今日、無人のちっぽけな島など、中国と戦争するくらいなら、あげてしまっても良い、などという人もいます。

しかし、筆者は思うのです。国土の尊さは経済とはまた別の次元の価値だと。そして、その尊さは、古来から国民がその国土を守り発展させようとした努力の積み重ねから来る、と。古賀辰四郎の尖閣開拓の苦闘、日本青年社の人々の灯台設置と維持、漁船衝突事件のビデオを職を賭して公開した一色正春さん、葛城奈海さんたちの尖閣防衛の訴え、、、

「*
ますらおの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」という歌人・三井甲之(こうし)の短歌が思い起こされます。
 (文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

―――――
「*ますらをの悲しきいのちつみかさね つみかさねまもる大和島根を」
(遠い古から、次々に尊い生命が捧げられ、その積み重ねによって、わが国日本は今も守られている)

---owari---
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