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命のビザ ~ ユダヤ難民を迎えた人々(前編)

2023年03月17日 | 日本
命からがら欧州から脱出してきたユダヤ難民たちを迎えたのは、敦賀の人々の温かい思いやりだった。

(エルサレムでの巡り逢い)
神戸市灘区の牧師・斉藤信男氏がキリスト教徒のグループを率いてイスラエルを訪問した時のこと。エルサレム市内のレストランで昼食をとっていると、40歳前後の婦人が話しかけてきた。

婦人は、斉藤氏一行が日本人であることを確認した上で、「日本の皆さんに感謝したい、私たちは杉原ビザによって救われた子孫です」と語った。婦人の祖父が妻と幼い子供(夫人の父親)を連れて、そのビザで欧州を脱出し、シベリア鉄道経由で日本にやってきたという。

三人は神戸にしばらく滞在した後、オーストラリアに渡った。夫人はそこで生まれ育ったのだが、祖父から日本に助けられたことを繰り返し聞かされて育ったようだった。

実は斉藤牧師の父親は、当時、神戸で牧師をしており、ユダヤ難民たちを教会に招待したり、リンゴを配ったりしていた。夫人の祖父とも会っていたかもしれない。半世紀後に、両者の子孫がエルサレムで出会うとは、不思議な巡り合わせではある。

「私は不思議な気持ちを持つと共に、恩をいつまでも忘れないユダヤ人の民族性に感動しました」と斉藤牧師は語っている。

(ユダヤ人保護に立ち上がった日本)
1940(昭和15)年7月、ナチス・ドイツとソ連がポーランドを分割占領した際、大勢のユダヤ人がバルト海沿岸のリトアニアまで歩いて逃れ、そこからシベリアを通り、日本を経由して、アメリカなどに逃れようとした。オランダ、ベルギー、フランスはすでにドイツに占領されており、シベリア-日本経由が唯一残されたルートだった。

その際に、在リトアニア日本領事だった杉原千畝(ちうね)が数千人のユダヤ難民に日本への通過ビザを発行した。これが「杉原ビザ」である。ただし同時期にウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなど12以上の都市の日本領事館でもユダヤ人へのビザが発行されていた。

その根拠となったのが、前年12月の5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要綱」で、ユダヤ人差別は日本が多年戦ってきた人種平等の精神に反するので、あくまで平等に扱うべし、という国家方針を定めたものである。

そのまた前年、昭和13(1938)年には、満洲国ハルビン特務機関長の樋口季一郎少将がシベリア鉄道で逃れてきたユダヤ人2万人を列車が雪の中で立ち往生した際に救出している。ドイツから強硬な抗議が寄せられたが、日本政府はこれを一蹴し、逆に樋口を栄転させている。

さらに、同時期に海軍の犬塚惟重大佐は上海の日本海軍警備地区にユダヤ難民収容施設を作り、世界でただ一ヵ所、ビザのないユダヤ難民でも受け入れて、1万8千人を安全に収容していた。

 当時の欧米社会で、非キリスト教徒、非ヨーロッパ人種という点で、日本人とユダヤ人はともにアウトサイダーだったのであり、ユダヤ人排斥は日本人にとっても他人事ではなかった。

杉原領事の大量ビザ発行は、外務省の行政手続きルールには違反していたかもしれないが、国家方針からも、また同じく人種差別の被害者という国民感情からも、筋の通った処置であった。その杉原ビザでやってきたユダヤ難民たちを、当時の日本人がどう迎えたのか、史実を辿ってみよう。

(「これからは日本の天皇が私たちを守ってくれるだろう」)
当時、10歳ほどの少年だったヤン・クラカウスキー氏は想い出をこう語る。

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シベリア鉄道は単線で、対向列車を通すために頻繁に停車しなければなりませんでした。そのたびにソ連の官憲が乗り込んで来て、いろいろチェックするので不安でたまりませんでした。実際に、途中で連行されていた人たちもいました。結局、モスクワから2週間かかりました。
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ソ連の官憲に手荷物検査されて、金目のものを押収されたりした人もいた。

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そんなうんざりするような列車の旅の後だっただけに、ウラジオストックから日本の船に乗ったときは有頂天にありました。ですから、船は古くて臭く、床の上で雑魚寝をしなければなりませんでしたが、まったく苦痛を感じませんでした。
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ソ連の領海をでたとき、乗客はほとんど全員、甲板に出て一斉に『ハティクヴァ』を歌い出しました。今のイスラエル国歌です。それはもう本当に喜びの爆発でした。横にいた父は私の肩に手を置き、「もう大丈夫だ。これからは日本の天皇が私たちを守ってくれるだろう」と言いました。

それを聞いて、私はそれまでなにも知らなかった日本が急に身近に感じ、天皇というのはそんなに偉大なのかと思いました。私が今でも日本に親しみを感じ、信頼を寄せているのは、このときの経験によるものだと思います。
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(「人道的見地から引き受けるべき」)
 ウラジオストックから敦賀までの船は、週1回定期運行していた日本郵船の天草丸だった。ユダヤ難民の輸送業務は、全米ユダヤ人協会から依頼を受けたジャパン・トラベル・ビュロー(現在のJTB、以下JTBと記載)が担当した。

難民輸送の依頼を受けたJTB本社では「果たしてこの依頼を受けて良いか議論が戦わされたが、人道的見地から引き受けるべきとの結論に達し、、、」と関係資料に記載が残っている。

反ユダヤ政策をとるドイツやソ連に睨まれる、という事業上のリスクはあったはずで、人道的見地からこれを引き受けた同社の勇断は賞賛されて良い。

JTBの職員で実際に天草丸に乗り込んで、輸送を担当した大迫辰雄(おおさこ・たつお)氏の手記が残っている。昭和15(1940)年の後半から翌年春にかけて、日本海が非常に荒れる時期だった。

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船首が大波をかぶってぐっぐっと沈み、甲板が海水で溢れて大丈夫かなと思うほど気色が悪い。・・・

乗船客のユダヤ人はパスポートを持たぬ無国籍人が多く、欧州から逃れてきた難民ということで、・・・中には虚ろな目をした人もおり、さすらいの旅人を彷彿とさせる寂しさが漂っていた。私はこの時くらい日本人に生まれたことを幸せに思ったことはない。
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船中で面倒を見てくれた大迫氏への感謝の印として、7人の難民が顔写真を贈っている。その裏にはフランス語やドイツ語、ポーランド語など、各地の言葉で感謝の言葉が綴られていた。着の身着のままの状態でヨーロッパから脱出した際に持ってきたかけがえのない写真であることを考えれば、彼らの感謝の念の深さが分かる。
 
---owari---
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