(智慧を使い、行動せよ。そして、駄目だったら潔(いさぎよ)く受け入れよ)
突き放した言い方になるかもしれないけれども、「ここのところで、今まさしく理想を具体化するための、日々の闘いをやっているのだ。それを代わってくれる人は誰もいないぞ」ということです。
職業にしてもそうです。学校だってそうですし、結婚だってそうです。親であっても代わってくれないのです。親友も代わってくれません。みな本人がやらなければいけないのです。
大相撲でもそうです。土俵に上がるとき、力士はそれぞれ一人、孤独です。けれども、代わりの人が相撲をしても意味がないのであって、自分でやらなければしかたがないのです。
同じように、結婚や就職や進学や卒業、このあたりのところは自分自身の問題であり、まさしく代わってもらえません。「自分の代わりに横綱が出たら、相撲に勝てるかもしれない」と思うかもしれないけれども、横綱が代わりにやったところで、自分の相撲には絶対にならないのです。
ですから、そういうことを聞いても、あえて、「あなたは何を言っているのか。そんなのはみんなずっと繰り返してきたことだぞ。理想を持つことぐらいは誰でもできる。それを具体化するのが難しいんじゃないか。それを具体化するときにこそ、智慧を使わなければいけないし、行動力が必要なんじゃないか。じっと座していて、『ああでもない、こうでもない』と悩んでいてどうするんだ。自分で考えて智慧を使え。智慧を使ったら、次は行動せよ」と言うことです。
行動した場合には、イエスかノーのどちらかしか出ないのです。行動しない人が、「ああでもない、こうでもない」とグルグル回っているのです。
自分で考えるだけ考えて、「これがいい」と思ったら行動することです。行動したら、結論は必ずどちらかになります。このどちらかになるのが怖くて行動できず、あれこれと愚痴(ぐち)ったり、何だかんだ言ったりしているのが大半であると、私は思うのです。
自分の考えに責任を持ち、行動に責任を持つこと。そして、行動して、それで駄目だったら、それをさっぱりとした気持ちで受け入れることもまた大事なことなのです。
「失敗したのはやり方が悪かった」「考え方が悪かった」「他人が悪かった」「あれが悪かった」「高級霊が応援しなかった」など、いろいろあるかもしれないけれども、そんなものは関係ないのです。
行動して駄目だったら、それを潔く受け止めることです。「自分の今の実力はこういうふうに判定されたか」と、甘んじて受けることです。それで人間は、また一段と凄(すご)みが出てくるのです。迫力が出てくるのです。それであって、また一段高いところに上がっていけるのです。
---owari---
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