つまがリズム

きままな、ひとりごと

(興亡の世界史15) 東インド会社とアジアの海を読んでメモ 2

2023年12月05日 | 読書感想
2023年12月5日

(興亡の世界史15)
東インド会社とアジアの海
 羽田 正(はねだ まさし)著
を、読んでメモ 2
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1636年 ポルトガル人との混血児と混血児を養子とした日本人287人がマカオへと追放され、
1939年には、オランダ人やイギリス人などとの混血児やその母32人がじゃがたら(バタヴィア)に追放された。
この頃の徳川政権は、ヨーロッパ人に連なる人々や彼らの血が混じった人々を
自らが管理すべき対象とはみなされなかった。

じゃがたらお春
 父はニコラース・マリンという名のイタリア人で、ポルトガル船の船員として働いていた。
 1621年頃に日本人女性と結婚して平戸に、長崎に落ち着いた。
 二人の間には、まん、はる、の二人の子供が出来たが、父は日本で亡くなった。
 母、姉とともにバタヴィアに追放されたときに、春は15才だった。

 春は21歳で結婚した。
 夫は東インド会社の事務員補でシモン・シモンセンといい、シモンの母は日本人だったと思われる。
 多くの子供に恵まれたが幼少の頃になくなり、長女だけが春より長生きした。
 夫のシモンは会社で昇進し、税関長などの役職についたのち亡くなっている。
 春はその後25年生き、1672年5月に亡くなっている。
 
 春らの遺言から、夫婦生活は順調で裕福な生活を送っていたことが想像できる。
 彼女は夫の死後も自分で何らかの貿易業務を行っていたようだ。

コルネリア
 彼女の名前は、コルネリア・ファン・ネイエンローデ、1629年生まれ。
父は平戸商館の商館長を務めたコルネリウス・ファン・ネイエンローデで、2人の愛人や娘に多くの財産を残して平戸で亡くなった。
財産のほとんどは、ごく一部を除いてバタヴィアの東インド会社に没収され、また二人の娘も母親から取り上げてバタヴィアに送られた。
オランダ東インド会社の本拠地バタヴィアでは、オランダ人が慢性的に不足しており、
オランダ人と現地の女性の間に生まれた混血児は貴重な「財産」だった。
このようにして、コルネリアと異母姉は1637年にバタヴィアに送られた。この時コルネリアは8才だった。
 コルネリアは1652年に孤児院を出てピーテル・クルノと結婚した。
ピーテルは東インド会社の事務員補だったが仕事熱心で才能にも恵まれており、出世して主席上級商務員となった。
二人の間には10人の子供が生まれたがそのほとんどは早くに亡くなり、最後の一人も彼女より先に亡くなった。
1672年にピーテルが急死したが、コルンネリアには有り余るほどの財産が残されていた。
 残りの人生は安逸に暮らせるはずだったが、76年にヨハン・ビッダーという男と再婚したことによって一変する。
当時のオランダ法は、夫に妻の財産の全面的な支配権を与えていた。夫は妻の財産を好きなように処分できたというわけだ。
コルネリアはピッダーが彼女の財産に興味があることを見抜いており、結婚の前にビッターと夫婦財産契約を結んだ。
しかし、その契約に不明瞭な点があり夫が妻の財産を勝手に処分するようになったために、夫婦間で激しく争うようになった。
二人の争いはバタヴィアの裁判所、教会、信徒代表委員会、東インド会社評議会さらにはオランド本告の東インド会社17人会、
ホラント州裁判所など数多くの機関と個人を巻き込み10年以上にわたって展開する。
 コルネリアは自分の財産差し押さえが有効かどうかを審議するためにホラント州裁判所に子や孫とともに出頭する。
このとき彼女は58才だった。彼女の健康状態は良くなかったが、どうしてもビッターに負けたくなかったのだろう。
しかし、この旅で彼女に残された最後の息子が死んでしまう。この悲しみにもめげず、コルネリアはオランダにつくやいなや
ビッターとの熾烈な戦いの緒についた。夫は法律の専門家である一方、コルネリアには知り合いが一人もいない
夫の故国オランダでの戦いであったことを考えると、彼女の勇気には驚かされる。
 まだ高等裁判所で審理が続いていた1691年夏にコルンネリアはこの世を去った。
彼女が残した財産は、ビッターにはわたらず、彼女の残された孫に相続されたのだった。
 

 
 

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(興亡の世界史15) 東インド会社とアジアの海 を読んでメモ

2023年12月05日 | 読書感想
2023年12月5日

(興亡の世界史15)
東インド会社とアジアの海
 羽田 正(はねだ まさし)著
を、読んでメモ
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①1498年5月20日、ポルトガル人/バスコ・ダ・ガマがインド(カリカット)に到着
 ガマらが用意した贈答品は、(生活水準の高い)イスラーム商人からみるとみすぼらしく相手にされなかった。
  【当時のヨーロッパ】
    戦争に明け暮れていたので、優れた武器をもっていた。
    人々の生活や文化は貧しかった
  【当時のインド(ムガル帝国)イラン(サファヴィ帝国)】
    人種や宗教にかかわらず、商取引のルールを守る人は誰でも受け入れられた。
    文化水準が高かった。
②バスコ・ダ・ガマのカリカット、2度目の航海
  武力により、イスラームを処刑したり、人々をに大砲を撃ちまくって狼藉を働いた。
    ↓  ↓  ↓  ↓
ここから、西洋人のアジア進出がはじまる。
アジアの支配者は、主に「陸」を支配しており、「海」については、港の使用料さえ手に入れば良しとしていた。
    ↓  ↓  ↓  ↓
当初の東インド会社は多くいる商人たちの一人という存在であったが、現地の有力者のいざこざに
介入することで、現地の有力者から土地や権利を取得していった。

 
    ↓  ↓  ↓  ↓    
③当初、香料などの利益が大きかったが、参入するものが増えるにつれ、利幅が少なくなった。
大きな利益を獲得するためには別の方法が必要だった。
アフリカから奴隷として人々を連れてきて、東南アジアのプランテーションで
強制労働させるなどの方法がとられるようになった。
    ↓  ↓  ↓  ↓ 
④植民地支配がはじまる。
現地の上流階級には、いままでよりも強い支配力を与えた。
そのため植民地化の受入れに抵抗が薄く感じられ、次第に支配が広まる。
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このようにして、インド、東南アジアは、いわゆる
「軒先を貸して、母屋を取られる」結果となった。

これに対して日本は違う対応をした。

鎖国政策をとった。
貿易ができるのは中国・オランダだけとして、外国人が出島から出ることを許さなかった。
しかも、貿易の量や回数、内容など、貿易の主導権は日本政府が握っていた。

商取引の利益が大きかったので、
オランダは、日本政府の屈辱的な命令でもきいていたと考えられている。
  

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 江田船山古墳~国宝が語るムリテとヤマト王権~

2023年12月04日 | セミナー
2023年12月4日




昨日(12/3・日曜日)和水町にシンポジウムを聞きに行った。
  江田船山古墳~国宝が語るムリテとヤマト王権~




 1873年(大正6年)1月4日に地元(江田村)の池田佐十(サジュウ)が夢のお告げにより丘を掘ったところ石棺を発掘し古墳であることがわかった。
佐十は数多くの貴重な副葬品も発見し、国が一括して90円で買い上げた。
 出土品92点は昭和39年に重要文化財となり、翌昭和40年に国宝に指定され、現在は東京国立博物館に展示保管されている。
これだけの副葬品が揃って把握できる稀有な事例であり、日本の古墳出土品を代表する存在として古墳時代研究に大きく寄与してきた。
出土当時から国宝級であると認められていたが、指定が遅くなった理由は出土品の一部を研究者が保管していたためである。
それが博物館に返納されるとすぐに重要文化財になり、翌年には国宝の指定を受けた。
遺物のなかには75文字の銘をもつ銀象嵌銘太刀などの刀剣類、銅鏡6面、冠帽類、耳飾類、玉類、武具類、馬具類、土器類など92件に及ぶ豪華なものが出土している。
 地元に伝わる話では、太刀が出土された当時は全ての文字が判明出来たともいわれているが、現在は三文字が不明である。

 
 また、江田船山古墳は昭和25年(1950年)の文化財保護法の施行後、すぐに国指定となる。
昭和50年(1975年)の範囲確認調査の成果を受けて、翌年には隣接する虚空蔵塚古墳と塚坊主古墳も史跡に指定された。



 1968年に埼玉古墳群稲荷山古墳群から鉄刀が出土された。
出土時の太刀はさびで盛り上がっておりこれを研磨しなければならなかったが、担当者がとても慎重に作業を行っており、キラリと光るものに気づいた。
レントゲンにかけてみると文字らしきものがみられ、現在では、すべての文字が判明出来ている。
これ以降、まず、レントゲンで調査することが原則となった。
 
 江田船山の太刀も稲荷山古墳の太刀も、地方の強力な豪族が作ったものではないかと佐藤先生。
豪族とヤマト王権との関係性を太刀に記銘し、これを人々の前で誇示することにより、
豪族の支配力を強めたとも推測される。
(5世紀後期) 大規模な前方後円墳を営む有力な地方豪族と大王との関係が銘文刀剣によって象徴された。
        ↓  ↓  ↓
(7世紀初め) 熊本肥後の横穴墓や兵庫県丹波の小円墳といった地方の中小豪族の墓主が、ヤマト王権の大王から銘文刀剣を与えられたと考えらている。
つまり地方の中小豪族まで配下に取込んでいた。

 

 ↑ 小学6年生の自由学習から
 

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