大喜多紀明論文 こちら の132頁で、
宗教は、死への恐怖を埋める装置である
って書いてあって、ビビッと来た。グサッと来た。
たしかにそうだな、と。
道元とか親鸞とか日蓮とかの時代、宗教は「死は怖くない」ことを説くトランキライザー(精神安定剤)の意味合いが強かった。
今の宗教にも、そういうところがある。
「死を説明する」のが宗教の役割。そう考えた場合、死を語っていない論語/儒教を「宗教ではない」と捉えるのが支配的(加地伸行さんは異なるけど)。
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たしかに、死を恐れずに、ムスリムがジハードとかやってもらっては困る。
しかし、「死を恐れない」からこそ、「現世で世俗的な幸せを求めない」覚悟が生まれる。
そして、そういう「幸せを求めない覚悟」から、勇気が生まれる。
だから、死を恐れない装置である宗教は、現世での勇気を生む。
皆さんの周りにも、「うぉっ、スゲッ」って勇気を出す人には、宗教心が強かったりしないでしょうか。
中村哲さん、『塩狩峠』の主人公長野(永野)、、古くは田中正造とか、マハトマ・ガンディーとか、鑑真とか。
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ちなみに、「宗教は死への恐怖を埋める装置」の出典は、石津朋之って人(防衛に詳しい歴史学者)の2020年論文。
戦争とかジハードとか危険だよ、って文脈で。