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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第18回

2018年01月19日 | 日記

もし皆さんの所に過ちを犯した人が来て「私を赦してください」と言ったとしたら、「何を厚かましくやって来たの?あっちへ行きなさい」。そんなふうに話す人はここにいないと思います。皆さんにも、それぞれ苦しめる人がいるかもしれません。私もいます。私たちを苦しめる人たちがいます。しかしその人が赦しを求めるなら、皆さんはいつでもその人を赦し受け入れる準備ができているのではないでしょうか? 「私がこんなに痛かったのだからあなたも痛い目に会ってみなさい」。そう言いますか? いや、むしろその人が赦しを求める前に先に赦すべきなんですね。それがクリスチャンの精神ではありませんか? 人間でさえそのようにするのに、まして神様はそうされないでしょうか? 私たちは時々、神様を自分達より劣る存在にしてしまっています。「たとい、女がその乳のみ子を忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない!」

 

「私たちの救い主の事を考えましょう。あなたの罪を負われる方に重荷を下ろしなさい。あなたは、あなたが神様を愛していることを知っています。それなら心配しながら生きることはやめなさい。・・・イエス様があなたの罪を赦されたこと、赦されるということを信じなさい。その方は弱くて困り果てた魂がその方の前に来て、その方に頼ることをお望みになられる方です。単純な信仰をもって、神様の前に出て、『信じます。不信仰な私を助けてください』と言いましょう」(3SM 325p)。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第17回

2018年01月18日 | 日記

放蕩息子は父が死ぬ前に遺産をくださいと言いました。放蕩息子の話は何度も聞きましたね。テーマは何ですか? 父親の愛、神様の赦し、放蕩息子の悔い改め、全部合ってます。間違っていません。ところでもう一つ追加するなら「大胆さ」です。どういう大胆さでしょうか?

私たちは「ああ、私はもっときよくなるべきだ。もっと善良になるなら神様が受け入れてくださる」と思いがちです。それは、現在の状態ではとても神様の前に出られない、誰が見ても出てはいけないような姿で、「そんなあなたがどうして天のお父様の前に行けるの?」。たとえそう言われたとしても、神様の御前に出て行く大胆さ、その方の恵みを必死に求める大胆さを持たれることを願います。

 「『まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した』(ルカ15:18-20)。これは実に優しく、人の心を動かさずにはおかない物語ですが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。・・・罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費しているとき、父の心はその子の身の上を案じているのです。(新生への道61p)

 皆さん、神様は罪を犯した私たちを愛されます。放蕩息子が父のもとに戻らず、豚を飼って結局は病気になって死ぬようになったと仮定します。その時彼は「自分がお父さんの言うこと聞かないで、家出したから神様の罰を受けてこのように死ぬんだ」。違います。神様を誤解しています。神様は、父は、依然として、涙を流しながら待っていてくださいます。神様を誤解しないでください。皆さん! 心に聖霊の訴えがあれば、聖霊の感動があれば、今立って「お父さん、私は神様に帰ります。悔い改めの心を持って御前に行けばいいのです。そうすればいいのです。

「哀れな罪人が帰りたいと思い、罪を捨てたいと願っているのに、主は彼が罪を悔いて主の足もとに来るのを拒むなどと考えられるでしょうか。決してそのようなことを考えてはなりません。天の父がそのような方であると考えることほど、魂を傷つけるものはありません。神は罪を憎まれますが罪人をお愛しになります。

 神がキリストをお与えになったことは、ご自分をお与えになったことでした。そして望む者はだれでも救われ、栄光のみ国で限りない祝福にあずかることができるようにしてくださったのです。神が私たちに対する愛をあらわすためにお用いになった次の言葉ほど、強く優しい言葉はありません。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない(イザヤ49:15)(新生への道63p)。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第16回

2018年01月17日 | 日記

皆さん罪悪感を捨ててください。神様は大きい方です。自分の考えに閉じ込められないでください。それを捨ててください、それこそ信仰で、信仰はすべてに勝利します。イザヤ46:3、4を見ると「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:3、4)。

 

ここには6ヶ月の子供を持つ夫婦もいて、こちらは2ヶ月ですか。皆さんの多くは子供を育てましたね。このお言葉には、神様は私たちが生まれた時から負ってくださり、持ち運び、飲ませて、寝かせ、ゲップをさせてくれ、お風呂に入れ、おむつを取り替えて・・・私もたくさんしました。寝かしつける歌も歌ってくださり、私たちが老いて白髪が混じっても私はあなたの父なので、依然として私たちを負って、持ち運び、面倒を見てくださるというのです!

皆さんの子供がいくら歳をとっても、親には依然として世話をしなければならない存在に見えますね。ここを見ると神様が私たちをそのように世話されると言われています。

このことについて書かれた言葉を読みます。

「過ちを犯している私の兄弟よ、・・・あなたが帰って来さえすれば、神様は喜んであなたを受け入れ、あなたのすべての罪を赦してくださいます。たとえあなたがさまよい、また神様から離れ、長い間、彼から遠ざかって暮らしていたとしても、神様はあなたを今も喜んで受け入れてくださいます」。

 私たちはこのような言葉を見ると、クリスチャンではない人、世界中の神様を知らずにさ迷っている人たちのことだと思うかもしれません。違います。私の罪も皆さんの罪も、私たちすべての罪を神様は赦されます。私たちはあまりにも信仰がないのです。もっと読んでみます。

 「神は、人間がお互いを取り扱うように私たちを扱われるようなことはありません。彼は、愛とあわれみといつくしみ豊かな神です。・・・悪魔は、この尊い神様からの保証を奪い去り、人の心から希望と光を消し去ろうとしていますが、そうさせてななりません。試みる者に耳を貸してはなりません。彼は人々から一筋の希望さえも無くそうとしています。しかし、あなたがたはこれを許してはなりません。誘惑する者に耳を傾けないで、こう言いましょう。『イエス様は私が活きるために死んでくださったのです』と言いましょう。彼は私を愛し、私が滅びるのを喜ばれません。私にはまた愛にあふれる天の父があります。私は、天の父の愛をないがしろにし、せっかく与えられた祝福を無駄にしましたが、立って天の父のみもとに行き、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同樣にしてください』(ルカ15:17,18)と言わなければなりません」(新生への道60p)。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第15回

2018年01月16日 | 日記

天国には、地球上に住んでいたすべての人の身上調査書があります。市役所に行っても皆さんの記録がありますね。天の身上書を他の言葉で何と言いますか? 記録の書ですね。私の身上書の最初のページにはこう記録されているでしょう。「ソン・ケムン。誕生00年2月25日(2月25日は記憶しなくてもいいです)。髪の毛112,130個、体重…。身長…"二番目のページには十戒が記録されているでしょう。その次のページからは、私が十戒を犯すたびに記録されるところがあります。「ソン・ケムンは第1の戒めを13,250回犯し、第2の戒めを3,980回犯し、第3戒は…、第4戒名は…ゆえにソン・ケムンは永遠の滅亡に処せられなければならない」。これはどれだけ正しい審判でしょうか!

 

罪の支払う報酬は死です。ところで私は神様と共に死んだので、神様は私の記録の書を取り出し、大きなハンコに自分の血をたっぷりつけた後、各ページごとに「赦された」としっかりハンコを押されるのです。そしてそれを外に持って行かれます。なぜなら神様はそんなゴミを天国に一刻も置いておくことを望まれないからです。それでその後、誰もそれを見ることができなくなりました。もし、ある人がソン・ケムンの記録を見たいなら、イエス様の十字架を越えなければなりません。

誰かが身上書保管所に来て「ソン・ケムンの身上書をください」と言ったとすれば、「もうない」と言ってくださるのです。「あの人に不利な記録は一つもないのだ」と手ぶらで帰るのです。

しかし、問題があります。

イエス様が私の調査書をなくして捨てる前に、サタンは私たちを騙すため、それらを一つ残らずコピーしておきました。もちろんそれはコピーであるため、法的拘束力はありません。しかし、サタンは私たちを騙すため、それを使って責めます。そんな時に落胆しないでください。「驚くべき神様の大きな恵みだ。私たちの罪を贖うため、カルバリの十字架で小羊が血を流された。主の恵みによって私たちの罪は洗われた。主の恵みが私たちの罪を洗った」。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第14回 

2018年01月15日 | 日記

子供は本当に午後のことを忘れてしまったのでしょうか。そうではありませんね。父親に対する愛のために、そのことを忘れる決心をしたのです。私はその日、子供の姿を通して多くのことを悟りました。

神様は全能の方です。天地創造の時からから現在まで、アダムの時から人類最後の人間まで、彼らの人生のすべてを細かい部分まで憶えて全部見ておられる神様です。そのような神様が何かを忘れてしまうことが可能でしょうか? はい、私は可能だと思います。可能です! 神様は全能の方ですから、忘れることに決心したらその方の記憶から消されるのです。それをずっと残しているとしたらそれは偽善です。神様が罪人を赦されるとき、その罪人の罪を赦すと共に忘れてくださるのです。赦してくださった後も、「あなた、この前こんなことしたよね」と言われるような神様ではありません。私たちが誰かを赦すとき、その人がどんな過ちをしたのか全く覚えていないなら、私たちの赦しはどれだけ簡単で、赦されるその人はどれほど平安になるでしょうか!

神様は私たちを赦した後、全くその罪を犯していなかったように思ってくださるのです。ただいやしてくださるだけでなく「ケムン、君が何の罪を犯したのか? 私はまったく思い出さない」。そのように言ってくださる方が神様です。イザヤ44:22を再び見ます。

「 わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。 天よ、歌え、主がこの事をなされたから。地の深き所よ、呼ばわれ。もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、声を放って歌え。主はヤコブをあがない、イスラエルのうちに栄光をあらわされたから」(イザヤ44:22、23)。

これはどれほど嬉しい賛美歌でしょうか! 神様がこのことを行なわれたから天よ、歌え、地よ、もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、声を放って歌え。なぜですか? どういうことが起きましたか? 何を行われたので天、地、山、木々が歌いますか? 私たちのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消されたのです! だから、その喜びを天、地、山、木が歌うのです。