福音の力を体験せよ 176
8、キリストの品性(性質)とは何か
“キリストの内に、満ち満ちているいっさいの神の徳がかたちをとって宿っている。これこそ、彼がわれわれと同じようにすべてのことについて試練にあわれたが、世に来られた最初から、周囲の罪に汚されないで、世の面前に立つことができた理由である。我々もまた、満ち満ちているいっさいの神の徳にあずかる者となるべきではないだろうか。このようにしてのみ、我々は彼が勝利されたように、勝利することができるのではないだろうか。”(7BC907)
“キリストの内に、満ち満ちているいっさいの神の徳がかたちをとって宿っている。これこそ、彼がわれわれと同じようにすべてのことについて試練に遭われたが、世に来られた最初から、周囲の罪に汚されないで、世の面前に立つことができた理由である。我々もまた、満ち満ちているいっさいの神の徳にあずかる者となるべきではないだろうか。このようにしてのみ、我々は彼が勝利されたように、勝利することができるのではないだろうか。”(7BC907)
心の窓
鹿のように
その時、盲人は見えるようになり、聾唖者は聞こえるようになり、また、話す。歩けなかった人が鹿のように飛び跳ねる。荒野であったところが水で潤い、美しい園のようになる。
イザヤ書35章5~7節。(現代訳聖書)
Tさんは、1種2級の重度の身体障害者だった。小さい頃、鉄道事故にあい、右手の肘から先、右足の大腿部から下を失ってしまった。それでも人一倍の負けん気と努力で、Tさんは好きな絵の道を志し、左手左足だけでたくさんの絵を描き続けて来られた。また、俳句の指導者としても、多くの人から尊敬され、若いころは片手片足で水泳をしたり、スキーをやったりして周囲の人を驚かせたという。
ところが、ある年の夏Tさんを脳溢血の発作が襲い、今度は元気な方の左半身が不随となり、寝たきりになってしまわれた。私が教会員の方から紹介されて、Tさんのお宅を訪問する様になったのは、そのような時だった。
はじめて会ったTさんに、「教会の牧師です」と告げると、Tさんは無表情でゆっくりと反対側を向いてしまわれた。「無理もない」と思った。自分の力だけを頼りに生きてこられたのだろうし、神様があるのなら、なぜ自分がこんな目にあうのか、神様に文句の一つも言いたいほどであったに違いない。それでも、何度か訪ねているうちに、心がほぐれてきたのか、奥さんと一緒に、世間話やら聖書の話しができるようになった。
ある時、私の方はそれほど深い意味はなく、「今、どんな事を考えていらっしゃるんですか?」と尋ねてみた。するとTさんは、病気のためによく回らない舌で、「死のことだ」と言われた。思いがけない真剣な言葉に、私は胸が詰まり、戸惑ってしまった。「死について、どんなことを考えておられるのですか」と聞いてみると、「怖い」と言われた。私は、どうしてもこの方に、天国のこと、永遠の命の希望について話しておかなければと思った。私は聖書を引用しながら、死は一時の眠りであり、よみがえりの日があること、天国で愛する者とまた会うことが出来ること、その時、人間のすべての不幸や悲しみ、問題が神様によって解決されることなどを語った。小さい時から誰よりも苦労をし、今は寝たきりになり、しかも意識だけ研ぎ澄まされて「死」について考えているTさんを目の前にして、「死」の死の問題を語るのは、複雑な心境だった。同じ立場にいない自分に、こんな事を語る資格があるのだろうかと言う気持ちが起きてきて、自分の信仰が試される思いであった。ところが、私がまだ話し終わらないうちに、Tさんはいつになくはっきりした声で、「俺は神を信じるぞ!房子(奥さんの名前)お前も神様を信じなさい!」叫ばれた。
Tさんに、どのように聖書の教えが伝わったのかはわからない。しかしはっきと、神様を信じる信仰を表わされたのである。Tさんが安らかな眠りにつかれたのは、それからしばらくしてのことだった。枕もとで、奥さんに聖書を読んでもらいながら、静かに息を引き取られたのだと言う。
「歩けなかった人が鹿のように跳びはねる」私はこのイザヤ書の聖句を、ありがたいものとして信じている。やがて、私達が、新しい世界に招き入れられた時、この聖書の言葉が実現し、Tさんとも再会できるのである。その日、「やあ、ひさしぶりですね」そう言いながら近づいてきて下さるのであろうか。足取りも軽やかに!