現在私たちが知っているクレオパトラ像は、ローマ人が勝者の観点で書いたものがほとんどで、クレオパトラというと、色仕掛けで相手を翻弄する女性ぐらいのイメージですが、正しく歴史を評価するなら、歴史は彼女を知性を備えた卓越した政治的能力と外交手腕を持った王と見るでしょう。 船を建造し、財政難に直面した国庫を満たすため、通貨を調節しました。彼女が政権を握っている間はエジプトで反乱が起こりませんでした。 飢饉の時の対策を知っている卓越した統治者だったと言われます。 あるドキュメンタリーを見ましたが、ナイル川からアレクサンドリアまで水路を作ってエジプトの地下に巨大な貯水池を作りました。 その当時、人口約50万人の大都市が一度も飢饉や干害を経験しなかったそうです。 それでエジプト人に最も評価される王がまさに女王クレオパトラでした。
クレオパトラは紀元前51年弟と結婚式を挙げて王位につき、共同統治を始めました。その時彼女は18歳、弟は10歳でした。 最初はクレオパトラがエジプトの政治を掌握していましたが、夫であり、弟のプトレマイオスが13歳に成長した時、彼を支持する勢力がクレオパトラに反旗を翻しました。 結局、権力闘争に敗れ島流しの状態になっている時、ローマのカエサルがポンペイウス追撃を口実にエジプトを占領しようと来たのです。
こうしてエジプトは、内部的には自国民の反乱と弟との王権争い、外部的にはローマの侵略が起きました。 危機に直面した国を守るため、クレオパトラは涙ぐましい外交術と計略を展開し始めます。 このようなクレオパトラをある歴史家は、エジプトのジャンヌ・ダルクと呼んだりもします。