ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(11)-スケッチ展-

2007年03月17日 | 美術

半年前に八幡・信用金庫のギャラリーから展覧会を勧められ、OKしていた。
充分時間があると思っていたが三週間後になってしまった。
「スケッチ展」にしようと考え、この冬、スケッチポイントを求めて八幡の街を散策した。
八幡は皿倉山の裾に広がる街、622mの山頂からの夜景は素晴らしい。光の海の中に黒く横たわる洞海湾は昔、石炭の積み出し港として栄えた。
このスケッチは、洞海湾の奥の方での一枚。

ギャラリーNON(10)-堤防-

2007年03月11日 | 美術

 遠賀川は筑豊炭田の中を流れる一級河川。
明治時代はこの川で石炭を洗い、そのまま船で若松港へ運び、そこから多方面に運搬していた。
その後、石炭エネルギーの地の利を生かして近代化のための鉄を作ろうと国策が布かれた。
洞海湾に面した八幡村で製鉄工場を作ることにし、
船の輸送力では需要に追いつかないから川沿いに鉄道が敷かれた。
遠賀川は石炭を洗うだけとなり、黒い川になったと言う。
石油エネルギーの時代になって石炭は斜陽化し、川は次第にきれいになった。
 今は市民の憩いの場。とらさんが寝転がっているかも知れない。
毎年咲き群れる菜の花は大好きな風景の一つ。
近くの方々の奉仕のお陰だと感謝している。 

ギャラリーNON(9)-土に触れて暮らす-

2007年03月02日 | 美術

 今、住んでいる家は築70年を過ぎている。妻の両親が、1935年頃、きな臭くなったハワイから帰国して建てた。周囲は田と畑で沢のような川の側に家はある。東西南の風は遮られるが北側が開けており海が見える。湧水は年中涸れることはない。
 居候と寮生活に飽きた独身の私は、この家に出会い、頼んで下宿させてもらった。大阪生まれとはいえ、田舎で育った私には願ってもない心地よい暮らしが始まった。400坪の土地は半年も放置しておくと藪になる。私は中学生のころ、一町もある棚田の土手の草刈りをしていたので鎌の仕事が得意、この家の周囲の草刈りを進んでした。
 この家を建てた時、電信柱を建てたのが悪評であったと言う。何も無い田畑の中では奇異な風景だったのだろう。私が下宿を始めた1966年ころはかなり家が建ち始めていたが、まだまだ長閑であった。
 その後、妻の両親は他界し、今は私がこの家を継いでおり終の棲家にとまで思っているが、それが最近すこし怪しくなってきた。
 ある日、竹林から間引いて切った竹を燃やしていると、市の環境課から数人駆けつけてきて市条例を書いたA4一枚の紙を示し、違反しているから直ちに消しなさいと怒られた。50センチの長さに切って、一枚50円のゴミ袋を巻きつけて一般ごみとして出せというのだ。大変な労力と金がかかる。
 またあるときは市から電話があり、近所から苦情が出ているので草を刈れというのである。蚊が多いのはうちの畑の草のせいだという。
 公道とうちの領域の境界に笹竹があって生垣の代わりをなしている。それを腰の高さに切りそろえてきれいにしたら、なぜかアルミ缶やペットボトル、時にはコンビニ弁当の殻が投げ込まれ始めた。
 ペットブームとなり、猫は自由に出入りして、柔らかい土があったらそこを糞をする場所に決めている。
 電柱より少し高いくらいの銀杏の木があり、実は付けてくれるし、金色に色付いたときはとても美しい。散り始めると屋敷周囲は金色の絨毯となってまた美しい。ところがこれが近所の苦情となる。樋が詰まって困るというのだ。
 そういえば、周囲にはすっかり家が建ち混み、我が家はもはやコロシアムの底にいるようである。良いところといえば、常に誰かからみられているので泥棒は仕事がしにくいことと、朝は小鳥の囀りに起されて、目覚まし時計が要らないことくらいである。70年前は電信柱で悪評を買ったが、70年後の今はそれどころではないのである。もう土に触れながら暮らすことはできないだろうか。
 

ギャラリーNON(8)-テーマが見付からない-

2007年02月19日 | 美術

 私は今までふと目にとまったものを描いてきた。
 そんな私に
「あなたは何をテーマに描いているのですか」とか、
「あなたはどんなものを描いているのですか」と聞かれることがある。
その度に、テーマがなければ描いてはいけないのか、人物か静物か風景かに専念する絵描きでなければいけないのかと拗ねて不機嫌になっていた。
 そもそもテーマって何だろう。
 一点毎の絵に添えてある画題のことか、それとも、展覧会の題名のことか。
一点毎の画題は一点毎に異なるし、今、九州国立博物館で行われている展覧会の例では、「若冲と江戸絵画」、英語では「JKUCHU and The Age of Imagination」と表記してある。これは展覧会の企画者たちがキャッチコピーのような意識で付けたもので、先の質問の答えに当たるものではなさそうである。もっと作者の奥底にある強い意識のことではないだろうか。
 私が初めて絵の前で立ちすくんだ作品は、香月泰男の捕虜の群れを描いた絵であった。私はその絵を見て、大阪大空襲で焼け出され、家族全員ぼろぼろで島根の母の実家へ落ちていく光景を思い起こした。5歳の私は、ずっと母に抱かれて満員列車にいたのだ。
香月泰男のそれは、単純化した構図に濁った白色の中に黒い塊が描かれ、その塊がなんであるかが自然に目の奥で理解できるのである。香月泰男の命の瀬戸際体験と私の体験では大きく比重が異なるが、共通しているのは生きるということ。香月泰男のシベリアシリーズのテーマは「戦争の悲惨・無意味を訴えること」であろう。
 こんなふうに考えていくと私にはそんな大それたテーマなどありえない。
 ふと目にとまるもの、それは一体なんだろう。NHKの「美の壷」のテーマのように、こんなものは美しいと思いませんかと私なりの美感覚を提示しているのかも知れない。私は当分これで行きます。私にはテーマが見付からない。

ギャラリーNON(5)-俳句のような絵を描きたい-

2007年02月06日 | 美術
 我が家に山頭火の直筆の句がある
 「こころすなをにご飯がふいた」
という句である。
 若い時からこの句の短冊があるのを知っていたが、眼をとめてもそれ以上のことは無かった。
そのうち、山頭火ブームのようなものが来て、若い頃眼にとめたその短冊をじっくりと眺めた。
爺さんが俳句が好きだったこと、同人誌「層雲」が家にあること、荻原井泉水の色紙もあることなどいろいろ思い巡らすと、近くで持たれた句会に山頭火が参加して、そこで詠まれたものであろうと思われる。山頭火の句集も読んでみた。そして次第に人間くさい山頭火が好きになっていった。
 少ない言葉を与えることで、広く深い思いを引き出させる俳句の力は素晴らしい。私も俳句のような絵を描きたいと思う。

 山頭火の句づくりのポイントの一つに
「ぐっと掴んで、ぱっと投げる」
 というのがある。
 そんなふうに絵を描いてみたい。いや、描けるようになりたい。

ギャラリーNON(4)-絵は抽象である-

2007年02月03日 | 美術

 私は、絵画教室で 「絵は抽象である」 と教えている。
対象をきちんと描いた絵は、写真とどちらが写実的かを競っているようなもので、「写生」とでも言ったら良いのかもしれない。抽象画が出現しているので、「絵は抽象画である」と言っているのかと誤解されるかもしれないが、そうではない。
絵には「やさしい」「厳しい」「温かい」「冷たい」「鋭い」「鈍い」「刺激」「癒し」などの抽象的要素が表現されているべきだと言いたいのである。これらを表現するのに具象が邪魔になると思った人が、具象を画面から排除した絵、すなわち抽象画を描くのであって、必ず絵は抽象画にすべきであるといっているのではない。
 そう言ったら、次に返ってくる質問が「それを表現するにはどうしたらいいか」という方法論となる。
ところが、その方法を指導すると指導者の絵になるのである。
 「絵を描くことを教えることはできない」という人がいる。その人は更に言葉を足す。
 「描くことは教えないが描いているところを見せることはできる」と。
表現はユニークであるべきだから、自分の表現法を指導者や他人の絵を見て自分で探さなければならない。
大変な仕事だが、好きだったら探し求めることができると思う。斯く言う私もその過程にある。


ギャラリーNON(1)-上手な絵と下手な絵ー

2007年01月31日 | 美術
 数年前の市民展覧会でのこと。
 小学生の子供と手をつないでゆっくりと展示の作品を見ながら歩みを進めている。
 「この絵が一番上手だね」
と子供。その子はしばらくその場で360度見渡して、
 「どうして、この作品に金紙が貼ってないの」
と親の顔を見やって聞く。
親は応える。
 「どうしてだろうね」

 私がその子の親だったらどう応えただろう。簡単には応えられない質問で、しかも応えてあげなくてはならない相手は純真な子供である。簡潔な言葉でなければならぬ。
 その子が上手だと指差した作品は、細密に描写した具象画であって誰もその絵の前で足を止める。実によく描いている。
 展覧会には殆どの場合、審査員がいて彼らの判断基準で入選・入賞者を決める。審査員の数が多いほど評価はばらつき、少なければばらつかないけれども偏る。
 絵の評価は、科学技術の世界のようにデーターに基づいた客観的な答えを導くものではなく、主観的で抽象的なもののようである。絵の評価基準の一つを無理やり言葉にすれば、「想いの拡がり」というのはありうるだろう。
 先の絵は、実に対象をよく観察して描写してあり、形や質感や色を上手く写し取っているのだが、その絵の前に立っていると、作者の対象に向かっている真剣な姿勢を想像することができる。しかし、そのことに引き込まれてそれ以上の想いを膨らませることをさせない作用があるのだ。こんな絵を描く人は絵が上手な人なので、想いを拡げさせる表現に困るものらしい。
 「絵は下手でいいから、良い絵を描けばいい」
などと、分かるけど納得までには至らない話になる。

 私がその子の親だったら、
 「その絵からどんなことを思った」
 と聞き返すことにしよう。そして、返ってきた言葉から上手い絵と良い絵の話に導こう。
 最後に、
 「この人、来年はきっと金紙が貼られるだろうね」
 といって楽しみにさせようと思う。