ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(54) 姫野陸郎-その3-

2013年09月30日 | 随筆
  「げってん」シリーズに自分を登場させるのは初めてのこととなりますが、恩師のことをつづる機会を逃してはあり得ないので、私の先生との思い出を書き出してみたいと思います。

  私は絵や音楽の好きな子供でした。中学時代には一度描いた水彩画が気に入らなくて、こげ茶色の絵具で塗りつぶしてしまい、捨てようとすると描いた絵が再び現れ、それにちょっと色を加えて完成とした結果、先生に職員室に呼び出されて、いい加減な描き方を叱られるのかと思ったら、この作品は西日本スケッチ展に出品するからと褒められたことがあります。高校は工業高校の化学に進み絵画とは無縁でしたが、思い出の詰まった学生寮が取り壊しになるというので、絵に描き残した覚えがあります。音楽や絵は楽しむもので食べるためには働くべしと考えていましたから、音楽や絵で飯を食える方法があるなどとは思っていませんでした。
  
  技術系のサラリーマンも板に付き始めた45歳のころ、茶のみ話がしたくてマルミツ画廊に立ち寄ったら、姫野陸郎二彩展でした。私は、
  「ワー、こんな絵を描いてみたいな」 と声に出しました。すると、
  「いいですよ、教えましょうか」と、ソファーに掛けていた二人の年配男性のどちらかの方が応えてくれました。声のほうに向き直って、恰幅のよい男性に向かって
  「本当ですが、是非、お願いします」と頭を下げると、
  「ここの画廊主が丁度今、教室作りを検討しておられるから、あなたも加わりたいと申し込んでおきなさい」 とおよそ服装など構わないように見える男性の方が応えて下さいました。それが、姫野先生だったのです。少しは仕事ができるようになった頃で、実際は趣味の時間をつくれそうもないのに、その時はきっと舞い上がった状態だったのだと思います。

  教室は時間のある奥様や定年退職された方が多く、私のような現役男性は少なかったと思います。美術教師や長く描いてこられた方、まれには画家の方も居られました。姫野先生のカリキュラムは私にとっては初めて食べる料理のように目を輝かしていたと思います。私の習作に対しては、いつも「ここのところはいい」と言われ続けていました。あるとき先生は、
  「君にはいつも部分的によいところを褒めてきたが、そろそろ全部がいいものをもってきなさい。君は私が良いと言わなかったところを工夫して一歩一歩良くしてきている。それは、感がいいとか、飲み込みが早いということだ。素直さがあるとも言える。・・・小声で・・・今まで長く描いてきた人にはそれが通じないのだよ」といって私にウインクされたのです。このときは褒められたのか、注意されたのかよく分からなかったと思います。
  一通りの基礎が終わると、月に二度、土日の二日間を作品制作のトレーニングに当てて下さいました。実はこの二日間の長時間教室は、これが無かったら今も絵を描いているかどうか分からないと思えるくらいに力になりました。制作のトレーニングは、最後まで描きあげることをしました。一つの作品を一回二時間程度の制作を数回に亘って完成させるのではなく、一気に最後まで搔き揚げます。水彩だからできることではありますが、最後まで行くことで、描き足りないところの見方が分かり、描き過ぎの失敗体験があったりして、体に染み込むような会得感があることです。
  しかし、先生の体調は次第に悪化し、西内科に担ぎ込んだ時は私の肩に体重を預け、私の足がもたつくような有様でした。
  「君が望むなら中央の展覧会に出品してみなさい。会の先生によく審査するよう頼んでおくから」と言ってくださったのは、西内科の病室にうずくまっていながらの言葉でした。

  1998年マルミツ画廊の光安オーナーから、そろそろ個展を始めないかと誘われたのは、姫野先生が亡くなられてから10年の年月が流れていました。
      
 「初個展の案内状とその際画廊に掛けた挨拶文」

  挨拶文は次のようでした。
  「ご来廊ありがとうございます。私は技術系のサラリーマン58歳です。ですから、絵具で何かを創るというよりも絵具はどのようにして造るのかといったような思考に慣れ切った人間です。ところが、もう10年以上前になりますが、故・姫野陸郎先生の絵に出会い、中学生以来の冬眠から醒めたような気持ちで水彩画の手ほどきを受けました。二年余りの短い間でしたが、「日本の家屋には水彩画が似合う」を口癖に命の尽きる寸前までご指導いただいたことを忘れることはできません。このたび稚拙をも省みないで初めての個展と相成りましたのは、画廊主の勧めと姫野先生にお礼も言わずにお別れした心残りがあったからだと思います。
 その後、絵からは離れられなくなり、絵画の先端でご活躍中の松屋和代先生に油絵の指導をうけるようになり現在に至っております。こうなってみると、長い間美術感性を置去りにしたことを悔やんでしまいますが、今は素直に、今までの人生の線上に立って絵で苦しみ楽しんで行こうと思っています。
  ここでは、日常生活や旅先で目に留まった花や風景の水彩画を中心に集めました。何がしかの気持ちが伝われば嬉しいことです。」

げってん(53) 姫野陸郎-その2-

2013年09月27日 | 随筆
  「ふり返ると四半世紀 マルミツ画廊よもやま話12」より一部を転載します。

  宿痾の胃癌と闘いながら、若松で水彩画を教えていた別府の姫野先生が亡くなりました。
  昭和63年11月、姫野陸郎先生追悼水彩教室展の案内状にはこうあります。「自分の技量をすべて伝えておきたい。そのためにアトリエで果てても悔いは無い」と言って病院から抜け出しての教えでした。
    
  火野葦平さんが山上軍艦と名付けた若松の高塔山を市街地から眺めて右の裾野あたりを「山の堂」と呼び、この丘陵住宅地の中ほどにあるわが家(光安鐵男宅)の久しく使っていないアトリエで姫野陸郎水彩教室を開講したのが昭和61年12月のことです。水彩画の魔術師と呼ばれた姫野先生の種明かしというので地元の人たちや初心者ばかりでなく遠くからも色々な人たちが押しかけました。
  ・・・中略・・・
  「基礎から始めたほうが結果は早いのです」と言いながら画用紙で手際よくユリの花のクラフトを作り、これをモチーフにした鉛筆デッサンから始まりました。これは形や影で立体感や質感を出す訓練です。次の彩度や明度の講義には色立体模型を使って解説します。臨画の練習は絵を描く手順の把握です。先生は「私から絵を習う人たちは、初めての人、ベテランを問わず一応同じような絵になります。それから先は皆さま次第です・・・」と言いながら細かい指摘を怠りません。教室の空気は緊張感ではち切れそうです。
  ・・・中略・・・
  開講当初から体が不調だった先生ですが、胃の手術を受けても教室は休まず続けます。しかもそれまで月一回だったのを二回に増やしたカリキュラムです。先生の奥さんは医事関係の仕事に携わっていましたが、「絵を通じて触れ合うことを大事にしたい。私は倒れるまでこの夢を続ける」と言い出す主人にはどうしようもありません。
  先生の病状が僅かながら快方を見せたのは術後の二、三ヶ月だけでした。痛さに顔をゆがめ教室の隅のいすの上から一人ひとりに声を掛けます。掛け声一つで絵が変わります。いよいよ動けなくなった先生を西内科医院に担ぎ込みました。満身創痍の先生のカルテは既往症でいっぱいになるほどでした。
  入院治療後、小康を得て別府の病院に転院した翌月、先生の本復だけを願いながら集まってきた教室の外に、人の気配がします。ドアの向こうに立っていたのはほおの肉を落とし、力の弱い目をした姫野先生でした。
  「まだ生きていましたよ」
  一瞬みんなは息をのみましたが、先生の愛車はこの日別府からの往路、何度もガードレールに当たって傷だらけでした。

  よもやま話はこれで終わっています。
  ここで、先生の作品をいくつか掲載します。
  

  

  

                                

  

  

ギャラリーNON(68) 契りきな

2013年09月26日 | 随筆
 NHKがサポートする「現地発・明日へブログ」は、被災現地の方からの生のお話が聞ける。また、You Tubeのような生の映像も見られる。今でも、3月11日の地震・津波の瞬間をみることができる。しかし、私くらいの年頃のものから年上になるとパソコンを操ることを遠ざけてきた人が多く、テレビや新聞が情報源となっている。これらの情報はどこか分かりやすく加工してあり、まとまりがないようなものは報道されない。
 
 岩手県陸前高田市の佐々木高志さんのブログの中の「夜、考えること」の章で、柳ケ沢ベースで桜模様のイルミネーションが津波で何も無くなった市街地を照らし続けているのをみて、心強く感じられると書いておられます。もしこの明かりがなかったらと想像すると分かるような気がします。また、東日本全体の被災地を巡っておられる途中で、宮城県多賀城市の“末の松山”に足を延ばしておられます。すぐ近くまでは浸水の跡がありますが、“末の松山 浪越さじ”だったと。

 このお話を読んですーっと画面が浮かんできました。百人一首に有名な清原元輔の歌、「契りきな かた身に袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは」で知られている“末の松山”は、千年前の津波の教訓を今に伝えている標であり、「変わらない愛」の象徴とまで持ち上げられている。
「契りきな」 M50水彩

 3・11の津波は近くまで押し寄せていますが末の松山を超えることはなかった。天空には大銀河がいつもの眼差しで地上を見下ろしている。そのイメージが絵になった。生死を分けた自然の力に対して、想定外とうそぶく空しさを思う。


げってん(52) 姫野陸郎ーその1ー

2013年09月18日 | 随筆
昭和61年(1986年)姫野陸郎は、マルミツ画廊では初めての個展を開いた。油彩と水彩の二彩展であった。
この展覧会は筆者自身の姫野先生と出会いでもあった。
  げってんこと光安鐵男の書いた「ふり返ると四半世紀 マルミツ画廊よもやま話 11」(西日本新聞)で、姫野陸郎をとりあげているので抜粋して紹介する。

  髪には櫛気がなくふさふさとしていますが、白いものが目立ち、黒光りしている広い額を際立たせています。眉間の縦皺は双眸の光を強くして、体躯に釣り合いな見事な鼻柱、口元に蓄えている髭で、画聖人姫野陸郎さんの精悍な風貌を決めています。
別府鉄輪の自宅にて
  
  韓国忠清北道で生まれた先生は、日本人学校長だった厳しい父のしつけで、迷子札を胸につけ、祖父のいる大分まで一人旅をさせられたのは小学校一年生の時です。幼いころから絵が好きだった姫野少年は京城師範、東京高等師範と進み、板倉賛治、寺内万次郎、石井柏亭、宮本三郎画伯などに師事、絵画の研鑽を重ねます。
 「そのころは大作家を夢見た」と話していた先生ですが、運悪く戦後の飢餓時代です。
 「まず生活だ」と、父の郷里大分で高校教師として奉職したのがいつの間にか、だらだらと20年過ぎていました。
 「やけ酒に失った20年が不用意に落とした宝石のように遠い過去に輝いて見えます。弊店間際に飛び込んだお客のようで、より美しいものを早く見つけ出したい気持ちです」
 不惑も過ぎて一念発起、絵筆一筋に挑みます。別府に居を構え、キャンピングカー(寝泊りできるワゴン車)を買い、
 「死ぬまでに一枚でいい、無関心な人でも足を止めるような絵を描きたい」こんな思いで全国行脚に旅立ったのです。
 行く先々で描いた絵は公民館、学校、農協、税務署など至る所で並べます。“旅の二彩展”と名付けている個展は油彩と水彩の小品ですが、とりわけ水彩に姫野陸郎の真骨頂が見られます。
 「私はなぜか水と太陽の光がすきです」と言う先生が描いた絵からは川音が空気の静寂を破って聞こえるようで、透明水彩の極致です。
 「古い画風で黙々駄馬のごとし」と語る先生の絵は現代絵画を見慣れている人たちにも小さくない反響を起こし、共感を呼び郷愁を覚えさせます

  マルミツ画廊で先生が初めて個展を開いたのは三度目の日本縦断が終わり、お歳も還暦が三、四年過ぎた昭和61年のことです
個展の案内ハガキ

  市内近郷に姫野ファンをもっている「二彩展」は遠くからの客も多く、絵に酔った人たちは教示しろとねだります。早速、若松で水彩教室の開講となりました。
 「私が習った先生方は皆、この世を去っています。今まで私が学んだものの見方、考え方、技術などをお伝えします。お互い先が見えていますので効率よく勉強しましょう」と話し、眼光炯炯指導に熱がこもります。
・・・<中略>・・・
 生徒の技量はめきめき上達、半年後に開いた「水彩作品展」には誰もが目を見張りました。しかし、このころ先生は50肩と足の痛みを訴えていましたが、その痛みが全身に回り、胃の手術を受けたのです。
 小康を得ると病院を抜け出して、すぐ教室再開です。このときから文字通りの死闘が始まりました。
 毎月、別府からワゴン車を運転して通ってくれましたが、だんだん病状が悪化、座薬で痛みを抑え、車に酸素ボンベを取り付けての遠征講義が一年以上続きました。別府の病院で意識の乱れた姫野先生が水彩教室のことばかり口走るうわ言を私が聞いたのは昭和63年10月のことでした。