ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その38)-若松高校同窓会総合文化展(追補)-

2007年12月20日 | 随筆
 若松高校同窓会総合文化展については(その35・36)に載せましたが、落としていたことがありましたので追補します。
 「若松高校同窓会の隆盛は彼の手腕に負うところが大きい」と光安鐵男に言わしめるその人は、喜連川修さんです。酸素溶材会社を経営している喜連川さんは、取引先で懇意な谷川義和さん(げってんその9に登場)に絵の手ほどきを受けており、光安鐵男とは絵で接点ありました。また、若松高校同窓会総会の世話役が持ち回りで光安鐵男に回ってきたときに、書記役をしている喜連川さんの采配や飛躍的な発案にはしばしば感心させられていました。若松高校同窓会総合文化展の発案も実は喜連川さんでした。寄付金を集める仕掛けやその成果は喜連川さんのアイデアが満載です。OBでプロの画家の作品を集めてチャリティーを企画したのもそうです。しかし、喜連川さんは1985年の同窓会館完成と同時期に同窓会の書記を辞め、その年の第7回を以って総合文化展も宙に浮いてしまいました。同窓会館の竣工式では「寂稜」と銘々したお酒を蔵元に造らせ、その売上げから大パーティーの費用を捻出しました。喜連川さんのご家族の方はお酒の箱詰めに夜を徹した想い出があると話して居られました。
 喜連川さんは地域を活性化させる名人でした。
 ・ 料亭「金鍋」で開かれる「若松異業種情報交流会」では「若松酒肴の会」をつくり、当時脚光を浴びていた吟醸酒をたしなむため西日本の蔵元を巡るツアー、遂には「若松忠臣蔵」に発展
 ・地ビール造りを発想したは水が大事と水探し、とうとう屋久島の水にたどり着く
 ・市の後押しもあって、冬の風祭りを発案。子供達に凧作りを教え、凧あげ大会。場所は響灘の埋立地で、グリーンパークで、広島で、遂には中国は万里の長城で河童の凧を揚げる
 ・自治会長時代は地域の祭りを盛り立て、五平太ばやしを推進。市の後押しする「わっしょい百万夏祭り」には地域独特の祭りを集合させ、五平太ばやしもこれに参戦させる。地元若松では「あじさい祭り」や、「まつり深町」を推進。町内の盆踊りでは地元に伝承されている伝統踊りとコラボレイトさせる。
 ・地元出身のバイオリニスト・川口エリサを後押しして後援会事務局の看板をあげ、大いに盛り立てた。川口エリサさんも感謝の意を表して、喜連川さんの可愛がっている地元の子供五平太ばやしの一団をご自分がコンサートマスターを務めておられるベルギー王立オーケストラの演奏会へ招待することに。喜連川さんは考えました。ベルギーで五平太ばやしを演奏しようと。
 残念なことに、このベルギー五平太が実現する2000年に仕掛け人喜連川は体調の異変を感じ、ご本人のベルギー行きは実現せず、突如人生を閉じることになりました。
 祭りといえば一致団結して自分の持ち場をこなす若松12区は今も健在です。奥様は行列のできる「男の料理」を主宰し、娘さんは近隣での働く人たちの胃袋を満たし、娘婿は喜連川さんが飛び歩いている間に酸素溶材会社を営むことを鍛えられていました。げってんさんも喜連川修さんとは波長の合うところが少なからずあったにちがいありません。
 

げってん(その37)-山福康政「ふろく」原画展2/2-

2007年12月13日 | 随筆
 この記事を書くに当たって、奥様の緑さんにお会いして「ふろく」をお借りしました。
 「初版は私の手元にもありませんので二版でよかったら、これ、差し上げます」
と言って、渡された198ページのA5版。昭和庶民絵草史とあります。見開きの2ページで一枚の絵と文があり、一つの短い物語が心をくすぐります。数十ページも読み進んだところで次のような絵があらわれました。


 山福さんが小学生のころの思い出の風景。きっと昭和13年(1938年)前後の風景に違いありません。画面左手に小田山、右手に関釜連絡船の見える響灘。ということは右手前に見える工場は21年後に私が勤めることになる会社です。
 
 少し脱線しますが、山福さんの描いたこの工場は戦闘機のフロントガラスを作るために用意されたものですが、その後、戦闘機そのものが無くなり、作らずじまいの無用な工場になってしまいます。戦争が終わっても13年間放置され、1958年ようやく別の目的の工場として利用することになります。新しい工場にするために錆付いた古い工場の不要物を片付け始めるころ私は入社しました。私は出光興産・徳山、武田薬品・光、日本石油精製・下松、日立造船・下松などのように、大きくてきれいな工場を間近に見ながら暮らしていたので、初めてここを訪れた時は、これが会社なのか、これが工場なのかと思ったものです。それでも会社を設立した幹部の方々は「日本のために必要な会社になる」とぶれないビジョンを持っていました。だから私は信じて働き続けました。時は国策として石炭から石油へとエネルギー源を転換し始めた頃です。石油はドロドロの輸入原油を日本国内でガス・ガソリン・軽油・灯油・重油などの石油製品に精製しますが、精製工程であるマジックのネタのような工業薬品を使って、需要に対応した石油製品の得率を調整するのです。そのマジックのネタ(触媒)を作るのがこの工場の目的でした。ネタは輸入に頼っていましたが、それではエネルギーの安定供給は確保できないからです。しだいに工場の生産量は増し、エネルギー転換政策を支える黒子として頑張る会社となりました。そして、しだいに戸畑や八幡から出る七色の煙は消滅していきました。
 私は、昼休み、山福さんの描いた工場の向こうの海で泳いだものです。

 展覧会の終わった翌月、「週刊朝日」深夜草子に作家・五木寛之さんが「素晴らしい本に出会った「ふろく」という一冊である。著者は山福康政という人。・・・ほんの何ページかをめくっただけで、私は本を机の上において最敬礼しました・・・。」と書いています。かくして山福さんは全国版の人となりました。 
 「ふろく」の出版の8年後、1988年「原っぱに風が吹く」を出版。更に7年後の1995年「焼け跡に風邪が吹く」を出版します。
 
 光安鐵男のインタビューに応えて山福さんは次のようなことを言ってくれています。
 「人間だれでも心の中に玉をもっとる。しかし自分の玉がどんな色をしとるかなかなか分からん。人に迎合したりうらやましがっとたりしたらなおさら分からん。負け惜しみやないが、脳血栓で倒れ、自分を見付けたことは良かったと思いますね」 

げってん(その36)-山福康政「ふろく」原画展1/2-

2007年12月07日 | 随筆
 1980年、若松区西園町在住の山福康政(51歳)が自費出版したイラスト自叙伝「ふろく」の原画展が開かれました。
 「ふろく」の出版を知った光安鐵男は、山福さんのことは住まいが近くであることや、画廊で催す展覧会の案内状は山福さんが営む印刷屋さんに頼んでいましたから顔見知り以上の仲でしたが、詳しいことは知らないことに気付き、原画展を開く前に慌ててインタビューを申し込みました。光安は下剤をかけられたような驚きを覚えました。二部屋びっしりの蔵書で押し潰されそうな書斎に通され、山福さんの生きざまを知ることになるのです。

 今回の展覧会の4年前、山福さんは脳血栓で倒れました。「ふろく」の中の言葉をそのままお借りすると、
 「ふはーほれふぁ ひーらひほうらあふぁんはろー」(あーこれは一体どうなったんだろー)。脳血栓発作が起きた直後に発した言葉です。人間一寸先は分からないということを文字通り体験したのです。後遺症による痺れは体を左右に分断し、風呂に入っても半身は全く温もりを感じません。医師からは
 「今度は軽かったが、この次はおしまいですよ」
と宣告されました。
 「これで一巻の終わりか、おれはこの世に何をしに生まれてきたのか?」
必死のリハビリに取り組み、後遺症は少しづつ薄らいでいきます。
 発作後二年目くらいから指先のリハビリになると思い、不自由な右手にペンを執りました。
 「何を描こうか?」
 「よし、おれの人生を描こう。親父の生きざまを子供達に描き残しておいてやろう」
と決心して、描き始めたのが紙芝居風の絵ばなし自叙伝「ふろく」だったのです。
 会場の原画94点には手彩色が施され画廊を明るくしています。ユニークな山福さんの絵と文章は、飽食の世の様々な歪の中で生きる戦争体験者の目と足を釘付けにします。不思議にも誰もが話さない「焼け跡」、「やみ市」などなど。すべて手描きの一風変わった"自分史"は大変好評で、自家製印刷の初版500部はすぐ売りきれてしまい、二版目の印刷を今度は東京の出版社が申し出てきました。

 帯にそのまま使えそうな幾人かの作家さんらが山福さんに寄せた言葉を列挙しましょう。

林 紀一郎(美術評論家)
 山福康政さんが楽しい「おまけ」を分けてくれた。20数年も昔の若松の同人雑誌「習作(えちゅうど)」の同人として、自主劇団「青の会」の仲間として、この度の「ふろく」ほど嬉しい再会は他にない。4年前、脳血栓で倒れ、再起を危ぶまれた男の、なんというあざやかな変身・蘇生ぶりだろう。

石牟礼道子(作家)
 ふろくとは、雑誌など夢にも買ってもらえなかった少女の頃、手にすることの出来ぬ宝物のイメージでしたが、今それが遠い日の夢の中から来たように手の中に在り、長い間、欲しがることを知らなかったごほうびに、神さまが下さったのであろうと思うことです。大切にいたします。あとまた来ないかなと、現金にも思いましたが、やっぱり欲しがらずに待っていることにいたします。

井上ひさし(作家)
 「ふろく」をありがとうございました。徹夜でよませていただきました。とてもたのしかったです。特に "だれも知らないエントツのびる夜がある” はすばらしい俳諧だなと思い感動しました。ありがとうございました。

武田百合子(随筆家)
 続けて読んだり、終わりの方を読んだり、まんなかあたりを読んだりして読み耽りました。読むと私の心の中がにっこり笑うのです。脳血栓発作の絵、一人で涙を出して笑いました。シビレラインの点線とひょられぐあ~。どうぞ、いつまでも、武田の書きましたもの、忘れずにいてやって下さい。

谷川俊太郎(詩人)
 朝の配達でとどいた「ふろく」面白い面白いと夢中で読んでいたら、おやつの時間になっていました。こういう書物もあるんだなあと嬉しくなります。快活で自由で、てれていて、あけひろげのようでいて、ちゃんとかくしていて、俳句にも好きなものいろいろありました。