ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その40)-石仏の画家・正本 嘉 2/2-

2008年01月31日 | 随筆
 1957年、正本さんは日展初入選を果たします(以後9回の入選)。1959年には、正本さんの画業を讃え日展入選を祝う会が催されます。この年は画廊を開設する5年も前に当たりますが、光安鐵男もこの会に出席し地方画壇の様子を垣間見たのでした。
つい先日、筆者は正本さんのアトリエを訪ねる機会があり、正本さんは当時を回顧して、次のように話して下さいました。
 
 終戦後まもなく、職を得て所帯をもち、絵を描き始めた。ある日、妻の実家の近くに後藤愛彦画伯(1905~1991、東京生まれ、幼い頃に北九州へ移住、八幡製鉄勤務、28歳で上京し川端画学校へ、第二次大戦でビルマ戦線、復員して東光会・日展に出品、その後東京中心に個展による発表を続ける、愛と信頼がモチーフ)が住んで居られることが分かり門を叩いた。成人してからの最初の師は後藤先生だった。
 デッサン力が基礎になると石膏像を描くようになった。あるとき、スケッチ旅行で臼杵(大分県)に出掛けたとき山中に静かに佇む石仏に出会った。早速スケッチを始めたが、最初はどうも石膏デッサンをしているような気がしていた。しかし、最後まで飽きなかったし、とても惹かれるものがあった。それは、石仏には時間を経過した色があり、視点や光によって表情が変わり、あちこちに佇む石仏はどれも違う姿・仕草をしていたからだろうと思う。これ以来、臼杵通いが始まった。朝、3時ごろ家をでて夜が明けると同時に描き始める。泊りがけもするようになり、遂には100号クラスのカンバスを現場に据えて完成させるようになった。

 現場で制作中の正本画伯

 当時の庶民の切なる思いが託された石仏、荘厳な存在感を持つ石仏。しだいにのめりこんで仏教や石仏の本を読み漁り、石仏の内面に迫っていった。もちろん、臼杵地方に限らず機会があればどこにでも行った。高じてカンボジア、タイ、インドネシア、中国、そして仏教の発祥の地インドまで足を運んだ。
 私の画業をもし皆さんが認めてくださるとしら、こうした絵に対する姿勢でしょうか。市民文化賞を戴いた時もそう解釈した。だから石仏の画家と言われても否定はしない。絵の勉強は石膏像のデッサンから始まる。私にはそれが石仏だったと結果として言えそうだ。風景も大好き。椿だって描きますよ。(笑)
 
 
 正本画伯のマルミツ画廊での展覧会は1971年から記録があり、殆ど毎年小品を主体に発表されました。その回数は30回を越えています。1987年頃からはご令嬢のカヨ子さんとの父娘二人展が折り込まれるようになりました。現在お歳は86歳、全ての団体から離れ、刑部先生との同道で楽しんだ時のように現地で風景を描いておられます。


げってん(その39)-石仏の画家・正本 嘉 1/2-

2008年01月22日 | 随筆
 10数畳の広さだろうか、日当たりの良いアトリエに通されました。スケッチと写真がびっしりと納められた本棚に囲まれています。すぐ隣の部屋が寝室になっており、これまた仏教や石仏の本がびっしりと納められた本棚に囲まれています。
 「あなたの個展の案内状は、ちゃんとここにとってありますよ」
と、すっと本棚から取り出して下さった。すっかり恐縮してしまったのが正本さんとの会話の始まりでした。
 
 正本さんは1921年生まれ、絵の好きな少年でした。長じて徴兵検査をパスし、入営します。戦争は太平洋戦争となります。周りの者は次々と外地へ行き散っていく中、正本さんは不思議にも内地に残ります。鹿児島の地で、やりきれない気持ちのまま終戦を迎えました。若松にもどり生活のため就職してサラリーマンの道に入ります。職がきまるとすぐ絵を描きたい気持ちが持ち上がり独歩で始めます。当時、白い絵具がないので天花粉を菜種油で分散して代用したとのお話でした。
 1948年東光展に出品し初入選、以後入選が続きます。日展への出品も始めます。1956年新世紀美協会発足と同時に出品を始め、入選し会員に推挙されます。このように精力的な中央展への出品で、生涯の出会いが生まれました。それは、展覧会に赴いた際の宿の直ぐ近くでの、同じく宿をとっていた刑部人(おさかべじん1906~1978、)との出会いです。軽く挨拶をして後、同じ展覧会に来ていたことが分かって話しが進み、弾みます。
 刑部画伯はヨーロッパの新しい絵画の流れに憧れは持ちながらも
「奈良や京都の風景が10年かけても描けないのに数ヶ月ヨーロッパに滞在できたからといってバルビゾンの人々がフォンテンブローの森を生涯描いたようにはいかない」
といって、油絵というヨーロッパの画法を追求しながらも生涯を日本の風景を描くことに捧げた画家です。徹底した現場での写実です。
 正本さんはそんな画伯の姿勢に惹かれ、1972年、画伯を九州のスケッチ旅行に招きました。耶馬溪へのスケッチに同道しました。現場で画伯の筆さばきをつぶさに見せてもらい感動しました。以後、正本さんは刑部画伯に心酔し、たびたびスケッチ旅行に同行するようになります。正本さんの作品に「奥入瀬」や「十和田湖」の風景が多いのはそんな背景があります。