1957年、正本さんは日展初入選を果たします(以後9回の入選)。1959年には、正本さんの画業を讃え日展入選を祝う会が催されます。この年は画廊を開設する5年も前に当たりますが、光安鐵男もこの会に出席し地方画壇の様子を垣間見たのでした。
つい先日、筆者は正本さんのアトリエを訪ねる機会があり、正本さんは当時を回顧して、次のように話して下さいました。
終戦後まもなく、職を得て所帯をもち、絵を描き始めた。ある日、妻の実家の近くに後藤愛彦画伯(1905~1991、東京生まれ、幼い頃に北九州へ移住、八幡製鉄勤務、28歳で上京し川端画学校へ、第二次大戦でビルマ戦線、復員して東光会・日展に出品、その後東京中心に個展による発表を続ける、愛と信頼がモチーフ)が住んで居られることが分かり門を叩いた。成人してからの最初の師は後藤先生だった。
デッサン力が基礎になると石膏像を描くようになった。あるとき、スケッチ旅行で臼杵(大分県)に出掛けたとき山中に静かに佇む石仏に出会った。早速スケッチを始めたが、最初はどうも石膏デッサンをしているような気がしていた。しかし、最後まで飽きなかったし、とても惹かれるものがあった。それは、石仏には時間を経過した色があり、視点や光によって表情が変わり、あちこちに佇む石仏はどれも違う姿・仕草をしていたからだろうと思う。これ以来、臼杵通いが始まった。朝、3時ごろ家をでて夜が明けると同時に描き始める。泊りがけもするようになり、遂には100号クラスのカンバスを現場に据えて完成させるようになった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/00/f82cf256abc82d3498078f41fd25d99d.jpg)
現場で制作中の正本画伯
当時の庶民の切なる思いが託された石仏、荘厳な存在感を持つ石仏。しだいにのめりこんで仏教や石仏の本を読み漁り、石仏の内面に迫っていった。もちろん、臼杵地方に限らず機会があればどこにでも行った。高じてカンボジア、タイ、インドネシア、中国、そして仏教の発祥の地インドまで足を運んだ。
私の画業をもし皆さんが認めてくださるとしら、こうした絵に対する姿勢でしょうか。市民文化賞を戴いた時もそう解釈した。だから石仏の画家と言われても否定はしない。絵の勉強は石膏像のデッサンから始まる。私にはそれが石仏だったと結果として言えそうだ。風景も大好き。椿だって描きますよ。(笑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/4f/d00160cb2296fd389dc8536d58bc6b32.jpg)
正本画伯のマルミツ画廊での展覧会は1971年から記録があり、殆ど毎年小品を主体に発表されました。その回数は30回を越えています。1987年頃からはご令嬢のカヨ子さんとの父娘二人展が折り込まれるようになりました。現在お歳は86歳、全ての団体から離れ、刑部先生との同道で楽しんだ時のように現地で風景を描いておられます。
つい先日、筆者は正本さんのアトリエを訪ねる機会があり、正本さんは当時を回顧して、次のように話して下さいました。
終戦後まもなく、職を得て所帯をもち、絵を描き始めた。ある日、妻の実家の近くに後藤愛彦画伯(1905~1991、東京生まれ、幼い頃に北九州へ移住、八幡製鉄勤務、28歳で上京し川端画学校へ、第二次大戦でビルマ戦線、復員して東光会・日展に出品、その後東京中心に個展による発表を続ける、愛と信頼がモチーフ)が住んで居られることが分かり門を叩いた。成人してからの最初の師は後藤先生だった。
デッサン力が基礎になると石膏像を描くようになった。あるとき、スケッチ旅行で臼杵(大分県)に出掛けたとき山中に静かに佇む石仏に出会った。早速スケッチを始めたが、最初はどうも石膏デッサンをしているような気がしていた。しかし、最後まで飽きなかったし、とても惹かれるものがあった。それは、石仏には時間を経過した色があり、視点や光によって表情が変わり、あちこちに佇む石仏はどれも違う姿・仕草をしていたからだろうと思う。これ以来、臼杵通いが始まった。朝、3時ごろ家をでて夜が明けると同時に描き始める。泊りがけもするようになり、遂には100号クラスのカンバスを現場に据えて完成させるようになった。
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現場で制作中の正本画伯
当時の庶民の切なる思いが託された石仏、荘厳な存在感を持つ石仏。しだいにのめりこんで仏教や石仏の本を読み漁り、石仏の内面に迫っていった。もちろん、臼杵地方に限らず機会があればどこにでも行った。高じてカンボジア、タイ、インドネシア、中国、そして仏教の発祥の地インドまで足を運んだ。
私の画業をもし皆さんが認めてくださるとしら、こうした絵に対する姿勢でしょうか。市民文化賞を戴いた時もそう解釈した。だから石仏の画家と言われても否定はしない。絵の勉強は石膏像のデッサンから始まる。私にはそれが石仏だったと結果として言えそうだ。風景も大好き。椿だって描きますよ。(笑)
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正本画伯のマルミツ画廊での展覧会は1971年から記録があり、殆ど毎年小品を主体に発表されました。その回数は30回を越えています。1987年頃からはご令嬢のカヨ子さんとの父娘二人展が折り込まれるようになりました。現在お歳は86歳、全ての団体から離れ、刑部先生との同道で楽しんだ時のように現地で風景を描いておられます。