ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(21)

2007年09月28日 | 美術
 久しぶりに遠征ゴルフで久住高原へ行った。
好天に恵まれ、ゴルフで遊んだあとゴルフ場近くの久住高原コテージに宿泊した。
 雄大な高原の只中で風呂に入るという贅沢をして、焼酎でほてった体を夕暮れの高原に晒した。放牧の牛の群れが一方向に向かって歩んでいる。やがて満天の星空となり阿蘇の五岳がシルエットになった。
 早朝、昨夜星空を眺めた丘に出てみると、霧に覆われて何も見えず、明るさが増すとともに霧がカルスト台地を埋め尽くすように集まり、五岳の周りを取り巻いた。すると五岳は霧の上に少し姿を現し、天空に釈迦が浮かんでいるように見えた。幽玄な一瞬である。いつか描いてやろうと思った。

 ゴルフをラウンドした友と別れ、私は竹田へ車を走らせた。
 岡城址の崖に立ち、思った。この城は攻め落とされなかったけれども攻めることもできなかったろうと。
 城下町の散策は止めにして、水のある風景をもとめて湧水、橋、滝のありそうなところに車を走らせた。
 幾つかのスナップを掲載しよう。










げってん(その33)―森三美素描展―

2007年09月24日 | 随筆
 森三美(もりみよし1872~1913年)は久留米市日吉町の生まれ。父は商家の番頭だった。絵を学ぶため、明治20年(15歳)に京都府立画学校に入学。近代洋画の開拓者の一人であった小山三造に洋画技法を学んで同25年に帰郷。27年には久留米高等小図画教師となるが、帰郷の年に開いた画熟から多くの有名画家を輩出した指導者である。
 画廊主のげってんこと光安鐵男と森三美がどこでどう繋がるのか不思議に思って、私は取材のような調子で尋ねてみました。
 
 市立病院内の薬局長をしている森正美さんがいて、その息子とは若松高校で一級下。学校を出たばかりの光安は若いお医者さんや薬剤師さん、レントゲンの先生達に可愛がられてよく病院に遊びに行っていました。光安はマージャンが得意であることは本稿(その5)でお話した通りですが、その薬局の片隅でまるでお昼休みの将棋でも始めるようにマージャンが始まったのです。レントゲン技師長も顔を出します。やがて、病院の管理者の耳に入り、不謹慎だと咎められますが、待ってましたとばかり技師長が従業者を代表して休憩室やちょっとした娯楽の施設がないことを逆に咎めます。出来上がった「和楽室」は雀荘になってしまいます。
 あるとき、薬剤師の森正美さんがこんなことを言い始めました。
 「うちの父の家に青木繁が居候をしていた頃、母が行水しているところを青木繁は夢中でその後姿をスケッチしていたらしんだ」
 「青木繁ってあの久留米出身の画家のことか」
 「そうなんだ」
 「それで」
 「母はふっと視線を感じたらしく、それが見つかってしまってな。怒った母は青木繁に水をぶっかけ、それでも治まらなくてその時の素描を全部取上げ、ずたずたに引き裂いて追い出したんだ。青木繁は父の着物を着たまま出て行ったって話だ」
 「そのお父さんと青木繁との関係は?」
 「父の名は三美、森三美と言うんだ。青木繁は父の画塾にきていた弟子の一人だった」

 話は面白くなっていきます。

戦後、森三美さんの仏前に坂本繁二郎が杖をつきながらお参りに来た話。青木繁の名画「二人の少女」は正美さんの姉たちがモデルだという話。どんどん話は展開して行きます。

 森三美の妻、冨美さん(1964没)は三美の死後、実家の折尾に移り住み、学校の先生をしながら正美さんの姉四人と正美さんを育てます。森正美さんは熊本薬専を卒業してのち修多羅に住み、薬剤師として身を立て、今は薬局長の後継者です。しかし、 正美さんは光安に
 「うちには親父の絵はない」
と言っていましたので話は話だけに留まっていました。

 森正美先生は、その後、薬局長として勤め上げたのち、1978年脳出血で急逝しました。うかつにも訃報を三日後に聞いた光安は奥さんの与志枝さんにお詫びをしてお参りをしました。
 話は絵のことになりました。




げってん(その32)―前田文子色紙回顧展―

2007年09月14日 | 随筆
 1979年4月前田文子色紙展が開かれました。前田文子(旧姓玉井)さんは1908年(明治41年)生まれですから、このとき71歳。芥川賞作家・火野葦平(本名玉井勝則)氏は文子さんの実兄に当たります。ちなみに火野葦平氏が亡くなられたのはこの展覧会の日から19年も前のことです。
文子さんは、小さい時は絵の得意な子だったと兄の自伝小説「思春期」にでてきます。1927年(19歳)で会社経営の前田正彦さんと結婚し、中国で8年にわたる戦争の時代を生き抜いて三男三女を育てました。子供達が育ち、自分の時間ができはじめた1965年ころから(丁度、マルミツ画廊がオープンした頃)自分流で色紙絵を描き始めました。それから14年、描きたまったもの800点の中から40点余を選び、回顧しての展覧会です。
 夫の正彦さんは、「これまでのお前の苦労に対する、俺のささやかなプレゼント。個展をひらいてみたら。費用の心配はするな」と言っておられたそうです。
 ご本人の案内文は次のようでした。

 「春爛漫の頃となりました。
 一昨年古稀の祝いに、何かの形でと、お友達や子供たちにすすめられておりましたが、病のため中断し、今回たまたま主人の喜寿の祝いも兼ね、マルミツ様のご厚意により、おこがましくも色紙回顧展をひらいていただく事になりました。ズブの素人の上、老の慰みにと師もなく、絵筆をとるようになった私です。
 お恥ずかしいものばかりですが、これからの私の生きるよすがとし、また、心のオアシスとしてつづけて参りたいと念じています。
 是非ぜひ、ご高覧下さいまして、力づけていただきたいと存じます。
 こころよりお待ち申し上げております。」
 
 日本画家の古田柳鶴氏はエールをおくりました。

 「あくせく追われる日々の暮らしの中で "きれいな時間”を持ちたいというのが、自分の希いですが、その“きれいな時間”を前田様はたっぷりとお持ちの人だと思います。誰にみせるでもない身近な日常の内奥の心境を、これ程までに優しい心で描かれるのは、自分に対しても、モチーフに対しても、たしかに生きてきたという感動を全身に受け止められ、それがすべて祈りの心に通じてしまわれるのではないだろうか。」

 作家で弟でもある玉井政雄氏もエールを。

 「・・・姉の人生を支えてきたのは、ひそやかな画業への精進です。絵は美神に魅入られた姉のいわば永遠の伴侶です。・・・姉の描いた絵たちは、きっとあなたたちの心の伴侶にもなってくれると信じています。・・・」

 個展は連日大変な人気。新聞も
  <古希に花開いた画才>
  <芸術性よりも優しさを>
  <乙女の夢抱き50数年>
  <七十路に情熱実る>
 と「絵を描いていれば退屈することはありません」という文子さんの純粋さに惹かれて見出しをつけました。

 筆者などは「人はなぜ絵を描くのか」などと妙な疑問をもつことがありますが、「・・・生きるよすがとして描いている・・・」などと言われたのでは無条件敬服です。絵を描く姿勢がこうありたいものだと思わせてくださいます。
 
 妹には画才があると兄の葦平さんが言ったとはいえ、当時、永谷園の海苔茶漬けにおまけとして入っていた、名刺大の安藤広重・東海道五十三次を拡大鏡で見ながら日本橋から三条大橋までを一年かけて模写した努力を葦平さんはご存知ない筈です。
 文子さんは1987年、79歳で人生を閉じられました。

げってん(その31)-40年ぶりの対面-

2007年09月01日 | 随筆
 光安は「自画像」を添えた遺族捜しの記事掲載を新聞各社に依頼しました。西日本新聞社はこれに応え市民版に大きく取上げてくれました。
 「先輩画家・渡辺武比古先生の遺族を捜して」
 「自画像など手がかりに老教授・福田さんが執念の遺作展」
 「21日から最後の望み託して開く」
などの活字が眼に飛びこんでくる紙面4分の1を割いた記事でした。

 展覧会の初日は朝から誰も訪れる人がありません。それでも光安は一階の眼鏡店と二階の画廊とを行ったり来たりで落ち着きません。
 夕刻、画廊の片隅に二人の子供を連れた若夫婦が遠慮がちに座っていました。やがて若夫婦は階段を下りて行きました。光安もすぐあとを降りていきます。降りきったところで男の子が
 「オシッコ」といって母親を見上げます。光安は眼鏡店の店員に告げて、男の子は手を引かれてお手洗いへ。
父親は既に外に出ていましたが、残っていた母親が光安に声をかけました。
 「何か手がかりでも?」
 「いや、それが全然」と首をふる光安。
 「あのー、主人が自画像の方の甥ですの。新聞記事を見て飛んできました。」
パーっと光安の顔が赤らみました。
急転直下の展開で、なんとその日の夜に渡辺先生の奥様に電話がつながるところまで漕ぎ着けたのです。

渡辺先生の奥様である田鶴子さんは埼玉県にお住まいで健在でした。やっと連絡のとれた電話の向こうの田鶴子さんの声は途切れ途切れで震えています。
 「夫の遺作を・・・そんなに・・・大切に・・・ぜひ遺作展の会期中・・・訪ねます。」
 田鶴子さんは夫に逝かれたあと、両親のいる東京に帰り、女手一つ、幼い子供5人を抱えての苦労。少なくとも1937年(昭和12年)からの10年間は全ての国民がどん底を味わったわけですが、そのなかで田鶴子さんは見事に5人の子を育て上げました。子供達にも連絡がつき、仕事で手が離せない次男を除いた遺族全員が4日目の展覧会会場に集いました。
 午後3時過ぎ、会場で顔を合わせた福田先生と田鶴子さんは、向かい合ったきりしばしの沈黙。福田先生が口を開きました。
 「しばらくでした。念願がかないました。肩の荷が下りた思いです。」
 「りっぱに保存していただいて・・・」と田鶴子さんは絶句。近寄って握手しながら、田鶴子さんは言葉を続けます。
 「九州の人々の人情のおかげです。母子だけで生きてきた40年間の苦労が吹っ飛びました」
歳をとっていないあの時のままの夫に40年ぶりに対面した田鶴子さんら家族と福田先生との話は、しばし弾み続きました。
 北九州市立美術館からは
 「郷土の画家の作品として、一点でいいから寄贈してください。永久保存したい」 と申し入れがあり、母子はこれ以上の光栄はないと、昭和4年作の「台北風景」を寄贈しました。
 末席でこの光景を見ていた光安は、今日まで続けてきた画廊の苦労を忘れました。