ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(8)-テーマが見付からない-

2007年02月19日 | 美術

 私は今までふと目にとまったものを描いてきた。
 そんな私に
「あなたは何をテーマに描いているのですか」とか、
「あなたはどんなものを描いているのですか」と聞かれることがある。
その度に、テーマがなければ描いてはいけないのか、人物か静物か風景かに専念する絵描きでなければいけないのかと拗ねて不機嫌になっていた。
 そもそもテーマって何だろう。
 一点毎の絵に添えてある画題のことか、それとも、展覧会の題名のことか。
一点毎の画題は一点毎に異なるし、今、九州国立博物館で行われている展覧会の例では、「若冲と江戸絵画」、英語では「JKUCHU and The Age of Imagination」と表記してある。これは展覧会の企画者たちがキャッチコピーのような意識で付けたもので、先の質問の答えに当たるものではなさそうである。もっと作者の奥底にある強い意識のことではないだろうか。
 私が初めて絵の前で立ちすくんだ作品は、香月泰男の捕虜の群れを描いた絵であった。私はその絵を見て、大阪大空襲で焼け出され、家族全員ぼろぼろで島根の母の実家へ落ちていく光景を思い起こした。5歳の私は、ずっと母に抱かれて満員列車にいたのだ。
香月泰男のそれは、単純化した構図に濁った白色の中に黒い塊が描かれ、その塊がなんであるかが自然に目の奥で理解できるのである。香月泰男の命の瀬戸際体験と私の体験では大きく比重が異なるが、共通しているのは生きるということ。香月泰男のシベリアシリーズのテーマは「戦争の悲惨・無意味を訴えること」であろう。
 こんなふうに考えていくと私にはそんな大それたテーマなどありえない。
 ふと目にとまるもの、それは一体なんだろう。NHKの「美の壷」のテーマのように、こんなものは美しいと思いませんかと私なりの美感覚を提示しているのかも知れない。私は当分これで行きます。私にはテーマが見付からない。

ギャラリーNON(5)-俳句のような絵を描きたい-

2007年02月06日 | 美術
 我が家に山頭火の直筆の句がある
 「こころすなをにご飯がふいた」
という句である。
 若い時からこの句の短冊があるのを知っていたが、眼をとめてもそれ以上のことは無かった。
そのうち、山頭火ブームのようなものが来て、若い頃眼にとめたその短冊をじっくりと眺めた。
爺さんが俳句が好きだったこと、同人誌「層雲」が家にあること、荻原井泉水の色紙もあることなどいろいろ思い巡らすと、近くで持たれた句会に山頭火が参加して、そこで詠まれたものであろうと思われる。山頭火の句集も読んでみた。そして次第に人間くさい山頭火が好きになっていった。
 少ない言葉を与えることで、広く深い思いを引き出させる俳句の力は素晴らしい。私も俳句のような絵を描きたいと思う。

 山頭火の句づくりのポイントの一つに
「ぐっと掴んで、ぱっと投げる」
 というのがある。
 そんなふうに絵を描いてみたい。いや、描けるようになりたい。

ギャラリーNON(4)-絵は抽象である-

2007年02月03日 | 美術

 私は、絵画教室で 「絵は抽象である」 と教えている。
対象をきちんと描いた絵は、写真とどちらが写実的かを競っているようなもので、「写生」とでも言ったら良いのかもしれない。抽象画が出現しているので、「絵は抽象画である」と言っているのかと誤解されるかもしれないが、そうではない。
絵には「やさしい」「厳しい」「温かい」「冷たい」「鋭い」「鈍い」「刺激」「癒し」などの抽象的要素が表現されているべきだと言いたいのである。これらを表現するのに具象が邪魔になると思った人が、具象を画面から排除した絵、すなわち抽象画を描くのであって、必ず絵は抽象画にすべきであるといっているのではない。
 そう言ったら、次に返ってくる質問が「それを表現するにはどうしたらいいか」という方法論となる。
ところが、その方法を指導すると指導者の絵になるのである。
 「絵を描くことを教えることはできない」という人がいる。その人は更に言葉を足す。
 「描くことは教えないが描いているところを見せることはできる」と。
表現はユニークであるべきだから、自分の表現法を指導者や他人の絵を見て自分で探さなければならない。
大変な仕事だが、好きだったら探し求めることができると思う。斯く言う私もその過程にある。