1978年4月11日~20日 「後藤愛彦 個展」が催された。げってんさんの企画である。案内状の文面をそのまま転載しよう。
「七年ぶりに後藤先生の個展を催します。アイヒコの無限の境地に特に貴方をご招待して堪能頂くよう、ご案内申しあげます。」
私が光安鐵男をげってんと言うのは、これはと思った作家には、画廊企画にして全ての費用を自分持ちで展覧会を開いたことが、理由のひとつである。
今回が七年ぶりなら、画廊開設6年目のときに最初の後藤愛彦展を開いたことになる。画廊開設3年目には、木内 廣(国画会会員)展を開いている。いづれも奥深い作家との交流があったことはマルミツ画廊の礎となったに違いない。
国際児童年に当たる翌1979年、光安は後藤画伯の心意気をくみとってチャリティー展を企画した。西日本新聞社に主催をお願いし、若松の画材店、野中響美堂とマルミツ画廊が協賛する形にして「人間・・・そして愛」と銘打ったチャリティー展を催した。もし、純益がでたら心身障害児療育施設「やすらぎ荘」(朝倉郡夜須町)へ寄付するというのが画伯の心意気である。ご自身では「貧者の一灯」だといって愛彦相場の4ないし5分の1で買ってもらうというのだ。果たして反響はどうだったのか。
後藤画伯は旧制豊国中学(門司)を出て、八幡製鉄で数年間製図工をしただけで、後はキャンパス相手の油絵人生を送ってきた。1905年、東京は早稲田戸塚の生まれ。幼いころ若松にきて、その後八幡に移り、28歳で上京して絵かき修行。戦後は再び八幡に戻ってきてアトリエを構えた。八幡を本拠地にしながらも、フランス・アフリカ・東南アジアなどにふらりと出かけて、しばらくは住みつくといった人生でもあった。
「ある人が、私を“無頼派”と言ったが、まあ、そんなものですよ」
とご本人は屈託がない。
気ままに生きてきた70余年、東京に住めば東京が“ふるさと”になり、パリ、ビルマ、アルジェ、トルコなど外国旅行をしても、すぐに友人知己が出来て
「いつごろから、ここにお住まいですか?」
と先方から問われることも一度ならず。もって生れたコスモポリタン的な後藤画伯の作品は、好んで太陽と海をモチーフにする。数年前フランスから帰国した画伯を目指して、中央から画商たちが殺到したほど、後藤作品には根強い人気がある。
「七年ぶりに後藤先生の個展を催します。アイヒコの無限の境地に特に貴方をご招待して堪能頂くよう、ご案内申しあげます。」
私が光安鐵男をげってんと言うのは、これはと思った作家には、画廊企画にして全ての費用を自分持ちで展覧会を開いたことが、理由のひとつである。
今回が七年ぶりなら、画廊開設6年目のときに最初の後藤愛彦展を開いたことになる。画廊開設3年目には、木内 廣(国画会会員)展を開いている。いづれも奥深い作家との交流があったことはマルミツ画廊の礎となったに違いない。
国際児童年に当たる翌1979年、光安は後藤画伯の心意気をくみとってチャリティー展を企画した。西日本新聞社に主催をお願いし、若松の画材店、野中響美堂とマルミツ画廊が協賛する形にして「人間・・・そして愛」と銘打ったチャリティー展を催した。もし、純益がでたら心身障害児療育施設「やすらぎ荘」(朝倉郡夜須町)へ寄付するというのが画伯の心意気である。ご自身では「貧者の一灯」だといって愛彦相場の4ないし5分の1で買ってもらうというのだ。果たして反響はどうだったのか。
後藤画伯は旧制豊国中学(門司)を出て、八幡製鉄で数年間製図工をしただけで、後はキャンパス相手の油絵人生を送ってきた。1905年、東京は早稲田戸塚の生まれ。幼いころ若松にきて、その後八幡に移り、28歳で上京して絵かき修行。戦後は再び八幡に戻ってきてアトリエを構えた。八幡を本拠地にしながらも、フランス・アフリカ・東南アジアなどにふらりと出かけて、しばらくは住みつくといった人生でもあった。
「ある人が、私を“無頼派”と言ったが、まあ、そんなものですよ」
とご本人は屈託がない。
気ままに生きてきた70余年、東京に住めば東京が“ふるさと”になり、パリ、ビルマ、アルジェ、トルコなど外国旅行をしても、すぐに友人知己が出来て
「いつごろから、ここにお住まいですか?」
と先方から問われることも一度ならず。もって生れたコスモポリタン的な後藤画伯の作品は、好んで太陽と海をモチーフにする。数年前フランスから帰国した画伯を目指して、中央から画商たちが殺到したほど、後藤作品には根強い人気がある。