ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その25)-星野順一-

2007年07月29日 | 随筆
 
 星野順一 1979年 「南瓜」12号
 
  絵とは
 ひとつのまなこをもとめ
 風景をさがし、静物を描く
 右に 左にあるく ひとつの動物である。
 まなこをわすれた画には 心がなく
 人を動かす力はない。
 只のカンバスと色である。
 まなこある絵は
 いつも人をみつめている。
           辻 旗治
                 

(この文章の一部は 西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀」 を引用しています。)


げってん(その24)-星野順一-

2007年07月24日 | 随筆
 明けて1976年1月は恒例の新春色紙展が催された。30人の色紙が新装なった画廊に並びと圧巻である。何も対象を見ずに、思いの一片を筆を伝ってサラサラと色紙に移す。日本的であり、新年らしくもあり、単純であるが見る者の思いをも大いに広げてくれるものがある。
 
 同年3月11日、星野順一展が催された。
 星野さんは、1905年9月若松市生まれ(現・北九州市若松区)。1996年1月90歳の充実した人生を終えた。
 星野順一さんの詳しいことは、ご子息の星野允伸(筆名:暮安 翠)が「花に魅せられて」2003年12月20日、発行「葦平と河伯洞の会」、に「星野順一の生涯」と副題を付けて著している。星野允伸は、九州文学2014春号に小説「三足の草鞋」と題して父・順一の生き様を著している。

光安がライオンズクラブの若松地区に奉仕していた頃、勉強のため八幡地区のクラブを訪問したことがありました。星野順一さんは、若松の出身でしたが八幡製鉄所から出る洗濯物一切を受けて今は八幡・荒生田でクリーニング工場を営んでおり、八幡地区クラブの世話役でもありました。
 星野さんは光安を中央町の「助六」に案内して、星野さんの友人に誘いの電話をかけます。
 「おい、今日は若松から面白い男が来とるんで出てこんかい」
 この店は文化人のたむろするところでした。
 星野さんは地方画壇の重鎮ですが、辻 旗治の筆名で詩を草する人でもありました。古い詩誌「とらんしっと」には岩下俊作、劉 寒吉、火野葦平らと一緒に詩を発表していました。火野葦平とは無二の親友で、玉井組の若親分として家業を継ぐためペンを折っていた葦平さんを「どろんけんに酔って誘惑」して「とらんしっと」詩誌社の一員に加えました。作家・火野葦平を製造したのは星野さんだと言うエピソードはこのことを指しているようです。
 星野さんは白髪に黒くて太い八の字のまゆ、いつも少し笑みを浮かべた顔は親しみやすいのですが、毒舌風刺は周知です。八幡のライオンズクラブの面々が一同に会しているところで、
 「君らは今、ゴルフクラブの会員権で儲けようとしているが、この光安君は借金で画廊を設けこれから損をしようとしている」と紹介しました。光安の「げってん」なところが星野さんには受け入れられたのです。

 マルミツ画廊での星野さんの個展はその後何度も行われることになりますが、星野さん自身が光安と語らうことを楽しみにして、画廊によく立ち寄り、その度に光安は小料理「杉」に案内して毒舌風刺に耳を傾けていました。

 星野さんの作品は、沖縄の紅型(びんがた)を思わせる強さと落ち着きのある鮮やかさを持った色調で、ご本人も「びんがたの詩」を吟じているほど思いを募らせるものがあるようです。
  

げってん(その23)-画廊新設-

2007年07月22日 | 随筆
 1975年12月20日画廊新設記念展が催された。
眼鏡店の壁面コーナーを展示場所にしてきた今までの画廊は、画廊と言えるかどうか分からないが、それでも10点~15点の作品が展示でき、側に応接セットが置いてあれば、眼鏡のお客さんより画廊のお客さんがたむろすることが多く大いに賑わった。画廊主の記念展案内状に記した文は専用画廊がもてた喜びが滲み出ている。

 ごあいさつ
 めがね店の壁面を利用頂いて10年、いろんな画家や同好の方々により育てられてきたマルミツも、この度永年の念願でありました"独立した画廊”を2階に新設いたし、誰もが気軽に語り合える「ひろば」として新しく発足致しました。この喜びとともに美術を愛する方々のご支援を戴き地域文化の向上のため少しでも役立てばと念じております。  店主

 記念展は作家41人が小品を持ち寄って祝った。

 「げってん」を書き始めて23回になったが、これまで登場しなかった出品者のお名前を記載して地域文化の向上に一矢を放たれたことに敬意を表したい。
 上原朝城(俳句)、冨田力、後藤愛彦、寺田正、向井みつを、中野靖夫、長浜良明、千原長子、原田純子、敷田一男、島実、奈尾豊、久野大二、池田幸子、大庭キミ、田中紀代、門司せつ子、小林美代子、佐伯佳昭、横尾明彦、榎本英雄、越智おさむ、宮本宗雄、宮本暁子、安高純代、田口裕司、津口光、伊藤合太郎、田頭敏夫、原田順子、原田ふみ子、石丸華陽、古田柳鶴、小溝倶子、西尾彪、松田昭八郎、芦馬治男、星野亮、乗松惟基、園山硯峯。


げってん(その22)-片山正信版画展-

2007年07月17日 | 美術
 画廊スケジュールに空きができた。膨大な数の作品をお持ちの片山さんを訪ねた。
有名な俳人の句に版画を添えた作品をお借りしてマルミツ画廊に並べた。
私の初めての画廊からの言葉を文にして案内状を作った。

 
片山正信版画展

 2007年7月12日~8月20日
 於:マルミツ画廊
 片山先生は現在93歳。
 日本が国際社会での地位を得ようと戦争から経済至上で走ってきた時代をずっと見続けてきた人。
 しかし流されることなく、人の心に染み付いた風景と情を彫り続けてきた。
 その作品群は1万点超。
 今回は有名俳人の句に添えた版画30点を展示しました。(画廊代行)

 山口青邨、西東三鬼、日野草城、杉田久女、種田山頭火、久保田万太郎、尾崎放哉、高濱虚子、三橋鷹女、高野素十、原石鼎(テイ)ら30人の俳句に片山さんの思いが乗っけられている。ご高覧いただければ幸いである。

げってん(その21)-片山正信・版画-

2007年07月14日 | 随筆
 片山正信さんの版画制作はすざましいものがあった。画文集だけでも「版画・若松百景1974年」、「若松版画散歩1980年」、「版画・若松再見1983年」、「大正走馬灯1983年」、「版画集・北九州めぐり1987年」、「版画・戸畑ちょっとむかし1989年」、「版画・満州あのころ1989年」の7冊を出版している。ほかにも若松観光、句碑建立チャリティー、市政20周年記念、大宰府市制施行記念、若松郵便局開局110周年記念、遠賀郡観光絵ハガキ、改築若松区役所ロビー壁画などなど地元や近郷に密着した仕事が多い。その制作数はピカソに負けていないと思える。
 なぜこれほどまでに地元、近郷にこだわっているのか聞いてみたくて仕方ない思いだったところ、「版画・北九州めぐり」を制作依頼される際に、北九州市から「なぜ若松風景だけにしぼるのか」と問われていることに、こう応えています。「それは現在そこに暮らしていて自分としては若松を一番よく知っているからに他意はありません」と。私は分かるような気がするのです。私の作品も身近な対象が殆どで、フランスもイタリアもスペインの欠片もないからです。
 
 午後3時、若松ケアハウスの片山さんを訪ねました。
 「今、お風呂に入っておられますので、しばらくお待ちいただけますか」と介護士。
 「はい、待ちます」と応えてロビーの椅子に腰掛けてました。
 若い介護士に腕を支えられて、さっぱりとした顔で片山さんがロビーに現れた。
 「彼女を紹介する」といって介護士に目を向ける。
 「眠っていたのを起されて風呂に連れて行かれた」と、不機嫌な言葉がついて出るが顔は少しほころんでいる。
 部屋まで案内され、お茶を出して下さる。
 話は版画作品に。地元風情を描いた○○シリーズ以外に一点ものがあれば見せて頂きたいと頼んだ。部屋の角に20号くらいの額縁用の箱に入っているので見ていいよといわれ、ちょっと手こずったが引き出して言われるままに開けて見た。期待する作品が沢山あった。私はこれが片山さんだと思い、遠からず展覧会にしたいと一人心に決めた。
 
 「しっかり昼寝をしてしまうと夜寝られないでしょう」と言うと、
 「かまわんさ、寝られないときは起きているから」と簡単にいなされた。
 玄関まできて、見送って下さった。
 
 

げってん(その20)-片山正信・版画-

2007年07月09日 | インポート
 片山正信さんの初個展は1963年(丸柏デパート)であるが、マルミツ画廊には1971年5月に小品展の最初の記録がある。片山さんは大正4年(1915年)の生まれだから、このとき56歳。小品展の案内状にはありきたりの案内文は一切なく、ただ次のように詩が書かれている。
 
 昨日も今日も何かが
 すさまじい音をたててころがっています

 ふと気づいてふりかえれば
 ああ・・・・・・もう見えないのです
 野原もとんでいた蝶も小鳥も
 木や花や小川の魚たち
 岬の夕陽は煙の中に墜落
 星はみえない波の音も聞けない

 昨日も今日も何かが
 すさまじい音をたててころがっています
        45-5-24 MK

「若松版画散歩」と副題をつけた展覧会。
この詩に詠っているように自然が傷つけられていることを悲しみ惜しむ気持ちを版画にぶっつけている。時は石炭エネルギーから石油エネルギーへの転換期、石炭積出港であった若松の姿をどんどん失っていく頃である。

 片山さんは昭和10年(20歳)から昭和20年までを兵役につく。昭和10年、小倉歩兵連隊に入営したが、昭和11年4月には満州派遣部隊として北満に駐屯。東部ソ満国境守備について負傷。12年5月兵役免除となるが第二次世界大戦の始まりにより再び満州へ。21年帰国。しばらく呆然としているが、やがて版画を始め、日本版画院展に3年くらい出品を続けて院友となる。そのころ日本版画院秀作展に選抜されて出品するも、巡回展が済んでも作品が返ってこなかったことを腹立たしく、そして空しく思い、ぷっつりと出品を止める。その後日本版画院の棟方志功に誘われて大阪の民芸協会に入る。協会のボスは三宅忠一さん。自家用のベンツに片山さんらを乗せて全国研修ツアーをする。「なにわ民芸店」を主宰する三宅さんの支店として若松市(現北九州市若松区)に民芸店を持つ運びとなる。
 オープンした民芸店の電話番号を届けるため信用金庫の窓口に並んでいた時、すぐ後ろに並んでいたのがマルミツ眼鏡店の電話番号を届けようとする光安鐵男だった。用件が同じで、それに電話番号も良く似ていた。二人は店も近いことから挨拶を交わし、そのときから親交が深まっていった。
 片山さんの民芸店はお得意さんの多い店になっていったが、開業から10数年後、頼りの三宅さんが他界し、大樹を失った片山さんはすっかり元気を無くして民芸店を廃業してしまう。兄の経営する鉄工所を手伝わないかと救いの手が差し伸べられるが、片山さんはこつこつ制作していた版画から離れられず、「これをやり遂げないと死なれん」と周囲の言うことを聞かなかった。
 先の、詩に詠われている心はずっと変わることなく片山さんは制作を続けることになる。現在92歳。体は細いが気骨な片山さんの話をもっと聞いておきたいと若松ケアハウスを訪ねる私である。