ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(26)-俳句の手(荻原井泉水)-

2008年05月15日 | 美術
個展を開いたあとの私の作品に対する専門家の批評は、ほとんど共通している。
「絵を描く技術については言うことはないのだが」
「表現したいことは、このことかな、それともこのことかなと思わせる」
「あともう少しで、絵になる」
と言ったような批評である。
 実は、こんな批評言葉は、私が指導・助言しているクラブのメンバーに対して私が言っていることでもある。なんということだ。かく言われている私が人に言えることか。特に、二番目の「何を描きたいのか」は自分でも強く意識している。何とか、胸を張って「何を描きたいのか」とクラブのメンバーに問うていけるようになりたいのだが、この問題は私のとって大きな壁であり、同時にメンバーにも分かって欲しい絵の本質でもある。

 荻原井泉水は「俳句の手」のなかで、「俳句には動律を感じさせるべし」といっている。

・・・大自然というものは生命の源泉である。私達の生活は、この生命から派出したる一つのせせらぎである。この真実に触れたところから句作に向かう気持ちが動いてくる。で、句作ということは、自然と自分とがぴったりと一枚であるという心を打ち出したものだ。打ち出すというのは、自分の言葉をもって写すということだ。生命は生きているものだ、生きているものは動いている。それが一見静止しているように見えようとも、其内に動きを蔵している。物理的に言えば、エネルギーである。このエネルギーを言葉の持つエネルギーにうつしたものが「動律」なのである。・・・
 
動律を具体的に説明するために引用した句が

 砂山芽ぶくものに海がふくらんで凪いでいる (秋紅蓼)

・・・この句は、凪いでいるという言葉で静かさをいい定め、その静かさの中に動きが含まれてゐる。砂山にも浪にも、大自然の生命がはっきりと掴まれてゐるのだ。北陸の海岸によく見られる砂山は冬は茫漠として砂漠のようでもあるが、その砂の中にやはり生命のある根があって、春になると青い芽をふいてくるではないか。さうして、海面は、春とて夏とて潮流の差のある訳でもなからうけれども、何となく、水平線が盛上がってきたやうなふくらみを感じさせるのだ。其ふくらみは、大きな浪も立たずに、まことに静かに凪いでゐるのだけれども、其内に満つべき時には満ちないではゐられない力が感じられるではないか。・・・

  このあとの説明は、この句をいじってみる試みをして、いじると動律が消えて行くことを証明している。

  私はため息がでる。そんな絵が果たしてこれから描けるだろうか。私の絵が「もう少しで絵になる」とするなら、このポテンシャル・エネルギーを画面に注入することあろう。