時は1970年代。いざなぎ景気を終えて経済安定成長に入ったころですから、作った眼鏡は売れ、げってんさんが存分に営業をしても成り立っていました。げってんさんを核とする人間関係の輪は幾重にも広がり、めがねのお客を呼び込んでいるわけではないけれどもお客は増えていきました。しかし、この状態は、げってんさんのお客のようであって実は坂本さんのお客であり、坂本さんのお客であってげってんさんのお客でもありました。
やがてバブル経済の時代に突入し、それがはじけてもレジの現金を掴みとる日々です。肝の小さい筆者はひとごとであるにも拘らず、こうして取材をするだけで不安でなりません。バブルがはじけると言うことが一体どうゆうことなのか、グローバリゼーションということがこの店に何の関係があるのか分かりたくもないと言った様子です。ショッピングセンターや量販店という商業形態が続出しはじめ、孤立した小売店舗は特異性がない限り存続できない時代になってきました。そのモールに行けば、広い駐車場があり、ほとんどそこで目的が達せられるようになりました。それに当座の眼鏡なら安く買えるようになりました。
2002年のことです。道路拡幅計画のため店を立ち退かなければならない事態が起こります。立退き料は画廊が無料開放なので眼鏡店の評価分しかでません。それではモールの中に入ることもできず、もし継続するならば、こじんまりとした眼鏡店だけとなりそうです。40年続けてきた画廊は膨大な人の輪だけが宙に浮遊し、幕を降ろすことになるのです。この話が今まで画廊を往来した人々の耳に入り、永年地域文化に貢献してきたことを立ち退き料評価の対象にするよう働きかけるのですが、北九州市にはルールの外へ踏み出す人はありませんでした。そこで一計を案じたのがマルミツ画廊を継続させるためのパーティーの開催です。市民会館の中ホールを一杯にするパーティーが催され、谷五平美術館長はじめ、末吉市長らがかけつけました。
美術館長は、
「マルミツ画廊は実にユニークな画廊で、40年間無料開放したことだけでなく多くの美術家を育てた」 と功績を讃える挨拶をしました。続いて市長は、
「光安さんとはこれまでの地域文化貢献に常々敬意をもって接し、ご指導も頂いてきた。これからもそうありたい。今回の件では私の力が及ばんかったが、画廊続行を願ってこの会に参加した。」 と挨拶しました。
げってんさんは
「私は60歳くらいまでしか生きられないと思って生きてきた。70に近づいてまだ生きているので続けよと言われるが、だれもこんな画廊を継ぐものはいない」 と苦悩の挨拶をしました。
つまり画廊続行は諦めていたので、これだけ多くの人が続けよと言ってくれることで苦悩が増したようでもありました。画廊は眼鏡店の営業が順調であって初めて成り立つのですから、シャッター街となりつつある昨今、移転の費用さえできれば画廊が継続できるという単純な構図ではありません。げってんさんはどんな行動を起すのでしょうか。
やがてバブル経済の時代に突入し、それがはじけてもレジの現金を掴みとる日々です。肝の小さい筆者はひとごとであるにも拘らず、こうして取材をするだけで不安でなりません。バブルがはじけると言うことが一体どうゆうことなのか、グローバリゼーションということがこの店に何の関係があるのか分かりたくもないと言った様子です。ショッピングセンターや量販店という商業形態が続出しはじめ、孤立した小売店舗は特異性がない限り存続できない時代になってきました。そのモールに行けば、広い駐車場があり、ほとんどそこで目的が達せられるようになりました。それに当座の眼鏡なら安く買えるようになりました。
2002年のことです。道路拡幅計画のため店を立ち退かなければならない事態が起こります。立退き料は画廊が無料開放なので眼鏡店の評価分しかでません。それではモールの中に入ることもできず、もし継続するならば、こじんまりとした眼鏡店だけとなりそうです。40年続けてきた画廊は膨大な人の輪だけが宙に浮遊し、幕を降ろすことになるのです。この話が今まで画廊を往来した人々の耳に入り、永年地域文化に貢献してきたことを立ち退き料評価の対象にするよう働きかけるのですが、北九州市にはルールの外へ踏み出す人はありませんでした。そこで一計を案じたのがマルミツ画廊を継続させるためのパーティーの開催です。市民会館の中ホールを一杯にするパーティーが催され、谷五平美術館長はじめ、末吉市長らがかけつけました。
美術館長は、
「マルミツ画廊は実にユニークな画廊で、40年間無料開放したことだけでなく多くの美術家を育てた」 と功績を讃える挨拶をしました。続いて市長は、
「光安さんとはこれまでの地域文化貢献に常々敬意をもって接し、ご指導も頂いてきた。これからもそうありたい。今回の件では私の力が及ばんかったが、画廊続行を願ってこの会に参加した。」 と挨拶しました。
げってんさんは
「私は60歳くらいまでしか生きられないと思って生きてきた。70に近づいてまだ生きているので続けよと言われるが、だれもこんな画廊を継ぐものはいない」 と苦悩の挨拶をしました。
つまり画廊続行は諦めていたので、これだけ多くの人が続けよと言ってくれることで苦悩が増したようでもありました。画廊は眼鏡店の営業が順調であって初めて成り立つのですから、シャッター街となりつつある昨今、移転の費用さえできれば画廊が継続できるという単純な構図ではありません。げってんさんはどんな行動を起すのでしょうか。