ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その43)-ものづくりが好き・坂本隆昭3/4-

2008年03月28日 | 随筆
 時は1970年代。いざなぎ景気を終えて経済安定成長に入ったころですから、作った眼鏡は売れ、げってんさんが存分に営業をしても成り立っていました。げってんさんを核とする人間関係の輪は幾重にも広がり、めがねのお客を呼び込んでいるわけではないけれどもお客は増えていきました。しかし、この状態は、げってんさんのお客のようであって実は坂本さんのお客であり、坂本さんのお客であってげってんさんのお客でもありました。
 やがてバブル経済の時代に突入し、それがはじけてもレジの現金を掴みとる日々です。肝の小さい筆者はひとごとであるにも拘らず、こうして取材をするだけで不安でなりません。バブルがはじけると言うことが一体どうゆうことなのか、グローバリゼーションということがこの店に何の関係があるのか分かりたくもないと言った様子です。ショッピングセンターや量販店という商業形態が続出しはじめ、孤立した小売店舗は特異性がない限り存続できない時代になってきました。そのモールに行けば、広い駐車場があり、ほとんどそこで目的が達せられるようになりました。それに当座の眼鏡なら安く買えるようになりました。
 2002年のことです。道路拡幅計画のため店を立ち退かなければならない事態が起こります。立退き料は画廊が無料開放なので眼鏡店の評価分しかでません。それではモールの中に入ることもできず、もし継続するならば、こじんまりとした眼鏡店だけとなりそうです。40年続けてきた画廊は膨大な人の輪だけが宙に浮遊し、幕を降ろすことになるのです。この話が今まで画廊を往来した人々の耳に入り、永年地域文化に貢献してきたことを立ち退き料評価の対象にするよう働きかけるのですが、北九州市にはルールの外へ踏み出す人はありませんでした。そこで一計を案じたのがマルミツ画廊を継続させるためのパーティーの開催です。市民会館の中ホールを一杯にするパーティーが催され、谷五平美術館長はじめ、末吉市長らがかけつけました。
 美術館長は、
「マルミツ画廊は実にユニークな画廊で、40年間無料開放したことだけでなく多くの美術家を育てた」 と功績を讃える挨拶をしました。続いて市長は、
「光安さんとはこれまでの地域文化貢献に常々敬意をもって接し、ご指導も頂いてきた。これからもそうありたい。今回の件では私の力が及ばんかったが、画廊続行を願ってこの会に参加した。」 と挨拶しました。
 げってんさんは
「私は60歳くらいまでしか生きられないと思って生きてきた。70に近づいてまだ生きているので続けよと言われるが、だれもこんな画廊を継ぐものはいない」 と苦悩の挨拶をしました。
つまり画廊続行は諦めていたので、これだけ多くの人が続けよと言ってくれることで苦悩が増したようでもありました。画廊は眼鏡店の営業が順調であって初めて成り立つのですから、シャッター街となりつつある昨今、移転の費用さえできれば画廊が継続できるという単純な構図ではありません。げってんさんはどんな行動を起すのでしょうか。

げってん(その42)-ものづくりが好き・坂本隆昭2/4-

2008年03月24日 | 随筆
 今、坂本さんにどうして店を飛び出したのか聞いてみるのですが、「きっと世の中のことが何も分かっていなかったからだと思う」と述懐しています。飛び出してはみたがどうする当てもなく実家の山鹿に帰ってしまいました。歳は23、さあこれからどうするか考え始めました。
 眼鏡の訪問販売を始めることにしました。資金は母親が出しました。中古のライトバン、眼鏡の仕入れ、問屋さんから検眼器をレンタル、ヤスリ・ペンチ・ヤットコ・小さなドライバーなど最低限の道具を揃え、山鹿のガタガタ道を走り回りました。当時の山鹿の人々には近視と老眼の眼鏡をかける程度で目の特性に合わせたきめ細かいマッチングはありませんでした。次第に坂本さんのサービスは地域の人々に受け入れられ自分の仕事の軌道が見えてきました。名古屋の店に居た時の彼女にラブコールをして山鹿に呼び寄せ、結婚にも漕ぎ着けました。ところが、仕事は軌道に乗り始めたのですが、ガタガタ道を走り続けているせいでしょうか胃を壊してしまいます。子供がうまれたというのに。やむなく問屋さんの紹介で飯塚の眼鏡店の店員に転職します。しかしなんということか、その店は中華料理・時計・眼鏡などを構えた大型店舗だったのですが、眼鏡は廃業して、さらに大きなビルに改築すると言うのです。僅か半年の飯塚でした。
 落ち込んで居た時に問屋さんが紹介してくれたのが「げってん」さんが経営する若松の眼鏡店。そこへ移ることにしました。3人の女性店員とげってんさんの4人の店。繁盛していましたので「げってん」さんは遊ぶ(営業)時間がありません。坂本さんが来てくれたのでおそらく営業ができるだろうと目論んでいましたが、期待以上に坂本さんの腕が利いており、眼鏡だけに限らず何でも不便があれば直してしまいます。この店の看板である大久保彦左衛門調の巨大な眼鏡レリーフも坂本さんの作。めがねフレームも18金や鼈甲(ベッコウ)でお客の要望に応えて手作りしてしまいます。「げってん」さんは全幅の信頼で坂本さんにまかせるようになりました。
かつて名古屋の店も飯塚の店も、眼鏡の全てを任せてくれることはありませんでした。坂本さんは水を得た魚のように存分にオリジナルめがねを作りました。お客は全て坂本さんに付き、「げってん」さんはレジから札を掴みだしては営業し続ける日々となりました。
 そう言えば「げってん」さんの若かれしころ、父親から
 「お前が動くと金が出て行く。商売は慈善事業ではない、儲けなくてはならんのだ」
と言われたことがあります。弟からは、
 「兄貴はじっとしておれ。お前が動くと金が出て行く」
と掴み合いの喧嘩になったこともあります。それが今また再現され始めたのです。あの時は叱るものがいましたが、今は叱る人はいません。一方の坂本さんは、お金のことには興味が無く、作ることが存分に楽しめるこの環境が好きでした。レジのお金が消えていくことは分かっていましたが、問題としませんでした。



げってん(その41)-ものづくりが好き・坂本隆昭1/4ー

2008年03月05日 | 随筆
 1981年9月、「テラコッテと創作ループタイ」と題した展覧会が催されました。出品者は千原稔、長谷川健治、松屋和代、光安鐵男、坂本隆昭、川岡秀美の六人です。この「げってん」シリーズにすでに登場した千原稔、長谷川健治、松屋和代さんらは画家ですが、あとのご三方は画廊主と画廊階下の眼鏡技術者です。
 この展覧会について当時の新聞は次のように書いています。

 人は時に本業からちょっと離れて「遊びの空間」を演出してみたくなるものだ。日頃キャンバスとにらめっこの画家たちが、粘土をこねて彫塑をつくった。そして眼鏡屋さんがレンズをいじっているうちにループタイをこしらえた。このなんお脈絡もない二種の作品群が「余技の美しさ」という点で見事に合致し、持ち寄った100点余りの作品はユニークな創作展となっている・・・後略。
 
 画家達の牛の親子、ドクロの壁掛け、ピエロ、自画像、リーゼントがきまったガクラン姿の高校生などのキャンパスにはない自由な造形。一方、眼鏡屋さんらはセルロイドをクリスタル、羽ばたく鳥、角のある牛の顔などにカットし、削り、磨いたものにレンズをはめたループタイ。思いっきり楽しんだことの分かる作品ばかり。上手に見せようとすることから開放されたら、こんなにも楽しいものであることを実感したに違いありません。

 千原稔 作 「カレイ」
 
 今回は、いつも「げってん」さんの影になって表に出ることをせずマルミツ眼鏡店の屋台骨となってきて、この展覧会にも加わった坂本隆昭さんにフォーカスします。
 坂本さんは1942年、熊本は山鹿の生まれ。父の戦死で母は3人の子供を育て上げなければなりませんでした。長男の坂本さんは小さい時から細工をすることが好きで小学5年の時は壊れた自転車やブリキなど身近なものから材料を集めて全て自力でモーターボートを作りました。夏休みの工作でこれを出品したら一躍話題になり、学校は特別の計らいで坂本さんにノーベル科学賞を贈りました。
 高校を卒業と同時にすぐ働かなければならず、名古屋の眼鏡店に集団就職しました。当時、ポラロイド社が検眼器を商品化し、眼鏡店としては憧れの機器でしたが高価で手が出せないでいました。それを坂本さんは手作りで完成させ店の有力な武器としました。しかし、店からは応分の評価はなく、ただよくやったと重宝がられるだけでした。また、当時はレンズをフレームに合わせてカットするのは手作業でした。そのため破損してしまうことが多く、歩留まりを向上させる必要がありました。坂本さんはプロジェクトを組み、歩留まり向上のノウハウを確立しました。しかしそれでも店からは重宝がられるだけで応分の評価はありませんでした。こんなことが度重なると理不尽な思いが募ります。その上、改善することには大そう興味が湧きますが、同じことの繰り返し作業にはすぐ退屈をしてしまいます。もどかしさから逃れるように5年でその名古屋の店を飛び出してしまいました。