ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(15)-畑貯水池・八幡西区-

2007年04月30日 | 美術

皿倉山から福知山へかけての山系に降る雨は、遠賀川や板櫃川、紫川へ向けて一気に走り下る。それを堰きとめて有効に利用することで200万人が暮らせている。畑貯水池は1955年に完成した貯水池で、沢山溜まっているようだが水利全体の約3%だそうだ。50年も経つと自然に馴染んでくる。この絵はまもなく終わる私のスケッチ展の中の一点。

げってん(その5)

2007年04月21日 | 随筆
 私は彼に「鐵男さん、あなたの周りはにどうして大勢の人が寄ってくるのですか」 と聞いてみた。不器用なそのままのしつもんであるが彼は答えてくれた。
「マージャンがきっかけになっていると思う」 という意外な返事だった。
 彼の兄が大学を卒業して郷里で教鞭をとりたいと帰って来た。そこで始まったのがマージャン。彼は雀荘へついて行き、兄貴の後ろでマージャンを覚えた。腕を上げ四人の中の一人となった。更に腕を上げ隣のテーブルからもお呼びが掛かるようになった。彼は牌をちょっと触っただけで牌の種類が分かるようになり、上家、下家、対面の顔色や仕草を見ながら勝負できるようになった。めったに負けなくなった。
 雀荘は教師、医者、市職員、行員、局員、社員いろんな人々が集まる場所。顔見知りとなり、彼にしばしば頼みごとや相談が持ち込まれるようになった。
 私は、このあたりにポイントがあると思う。
最初の一人の頼みごとを親身になって聞いてやり、よい結果をもたらしたのではないかと思う。
彼は「商売人としての立場と勘を働かせた」という。マージャンでの戦利と無償の世話との見事なバランスをとり、可愛がられながら、便利がられながら、人間関係の輪を波紋のように拡げていったのだと思う。
 一方で彼は「マージャンで飯が食えるのではないかと思ったことがる」と述懐している。
商売用の技術を身に付けるため上京した際、腕試しに雀荘に乗り込んだ。ある時、詰め込み(自分に有利な牌が来るように牌を積み上げること)をやってみたら、
 「お前さん、そりゃよくないよ」
と軽くあしらわれたのだ。上には上がいることが分かり、マージャンを生業とすることは断念したというエピソードがある。



ギャラリーNON(14)-一房の藤-

2007年04月21日 | 美術

 社会人になって家庭をもつようになった頃、姉のいる光市の田舎へ遊びにいった。ヤマフジが綺麗だというと姉は背丈の低い根の付いた藤を抜いてくれて、「もって帰って植えるといい」と渡してくれた。姉は私が中学生時代の農作業の教官だった。だから藤を抜いてくれることくらいいとも簡単にやってのけた。
 持ち帰って植えたら二年目くらいから花をつけ、場所を考えずに植えてしまったので数年後には蔓延って困り果てた。とうとう根から引き抜いて没にした。しかし、何処かに根が残っていたのだろう、こうして又、花をつけるのである。姉が根にもっているらしい。
 

げってん(その4)

2007年04月13日 | 随筆
 眼鏡店の一角に最初に掛けた千原稔さん(現国画会会員)の作品「砂丘」は、からすが小魚の骨をくわえて、じっとあたりを睥睨(へいげい)している。戦中派の慢性的飢餓意識と世紀末の黙示録をみていうようだったと彼(げってんさん)は回顧している。絵のことが分かる分からないにかかわらず、この絵の存在感は、きっと誰の心にもにも残像となったことでしょう。
 「お金は頂きません。自由に画廊を使って下さい・・・」こんなフレーズに画家たちはきっと目の色を変えて押し寄せると思いきや、その後の申し込みは見事に皆無。地方の芸術家はシャイなうえに個展と言う手段で自己を主張することに全く不慣れだった時代です。
 おこがましくも貸し画廊と名乗りを上げて、借り手が無いとは情けなや。げってん気質がむくっと顔を持ち上げ始めます。彼は早速芸術家達のアトリエ訪問を始めます。作品の搬入搬出をはじめ、額縁を持たない画家にはそれぞれの準備をして、看板から案内状の印刷・発送まですべては画廊の負担です。
 切り口は学校にありました。
 彼は高校時代、中島継次郎先生に美術指導を受けていました。その同じ先生に指導を受けていた彼の大先輩に福田安敏先生がいます。福田先生は東京美術学校(現東京芸大)彫刻科を卒業、二科展で特選を受賞するほどでしたが、時代は応召に飢餓を余儀なくし、教鞭を生業とすることは止むを得ないことでした。彼が出会ったときの福田先生は、市の文化財保護審議会委員や絵画同好会を主宰している八十路に近い無欲恬淡な先輩でした。彼はこの先輩を勝手に自分の画廊顧問と決めました。

(この文章の一部は、1990年西日本新聞連載「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています)


ギャラリーNON(13)-山桜-

2007年04月11日 | 美術

9日から始まった私の水彩スケッチ展の中の一点。
八つ切りで「山桜」を描いた。
染井と吉野とを掛け合わせた染井吉野は派手で豪華。
私には山桜の方が馴染みやすい。
我が家の庭にも一本の野生の山桜があって幹は両手を回して丁度の太さ。
去年、枝が家の瓦や樋に触るようになったので思い切って枝を落としたら今年は花が少なくて寂しい限り。
染井吉野はもう直ぐ葉が茂り始めてきれいになる。
古木の桜なら、雨の降ったあとの濡れたの幹の色もきれいだ。

げってん(その3)

2007年04月09日 | 随筆

 眼鏡店で独立する前は、父親の営む時計・貴金属・眼鏡店・印章店の一員に加えられていた。
彼はお金の計算は一切しなかった。持ち前の不思議なカリスマ性でどんどん人の中へ入っていった。沢山の注文をとってきたが、そのために沢山の酒代を使った。地域で大きな工場建設が進んでいた頃、建設業者のなかに入って行き、建設業者が完成記念に顧客へ贈呈する時計の注文を次々と取って来た。病院、学校、役所などからも注文をとってきた。しかし、金勘定すると大赤字なのである。
父親は、
「お前が動くと金が出て行く。商売は慈善事業ではない。儲けなくてはならんのだ。」と叱る。
一緒に働いていた弟は、
「兄貴はじっとしておれ。お前が動くと金が出て行く。」
と言う。
「俺はこれでも働いているんだ。」と反発。あとは掴み合いの喧嘩である。
母親はそうではなかった。カリエスで苦しんだ幼い子が命拾いをし、今こうして皆に可愛がられ働いているではないかと喜んでいたと言う。温泉が良いと聞けば温泉に連れて行き、遠くによい医者が居ると聞けばはせ参じたから、健康な兄や弟は両親の愛情を全部この難しい病気にかかった彼のために奪い取られたような気がしたに違いない。周囲からみても夫婦で稼いだお金は全て彼のために使っているように見えたという。
 そんな時代があっての今の独立通告である。独立しても彼の日常は変わらなかった。酒を飲み、マージャンをして、まともに家に帰る日は無かった。3日も帰ってこないので店員さんに問い合わせたら今病院の慰安旅行に同行しているとの返事。着替えも持たずに。



ギャラリーNON(12)-八幡スナップ-

2007年04月04日 | 美術

9日からのスケッチ展の中の一枚。
JR八幡駅に降り立つと大きな通りが皿倉山の麓へ向かっている。
誘われるように歩みを進めるとフェニックスが大きく育って通りの中央を走っている。
彫像も据えてある。
製鉄所のある町として賑わったことであろうが、今、突然とこの風景をみると不自然に感じる。

げってん(その2)

2007年04月03日 | 随筆

 眼鏡店舗の一角を使った簡易画廊では手狭となり、店舗の二階を借り増して、小品なら30点は飾れる画廊に改装した。そもそも、眼鏡店舗は彼の父親が借りてくれているもので、父親からすれば息子の自立を促すために眼鏡店をもたせたのであって、眼鏡の方はそっちのけで一銭にもならない画廊にはまってしまい、その上、勝手に二階に画廊を設け、その家賃まで払わされるのでは如何したものかと思ったに違いない。
 父親は息子に言った。
「見るところお前は大変良い友人に恵まれている。人徳があって例え商売に失敗しても必ず他人が助けてくれる。これからは一人でやりなさい」
 煽てられたようだが、(父親が本店経営なので)本支店勘定の打ち切り、経済封鎖の宣告を受けたわけです。30歳半ばにあった彼が自立できていなかったことについては、どうしても話しておかなければならないことがある。
 彼は幼少の頃、脊椎カリエスを患った。肺が侵され、更に骨に。熱と膿みとの戦い。ペニシリンの出現で命拾いする。しかし肺は片肺となり亀背となった。今70歳を超えているが、「こんなに生きるとは思わなかった」と漏らすことがある。
私はこの病の体験が彼の人生観を常人とは違ったものにしたと思っている。
 父親はなんとかこの子を自分の力で生きていけるよう考え出したのが眼鏡技術を身に付けさせてることだった。ところが、読書、作文、絵画、登山が好きな青年には眼鏡の商売はなさねばならぬこととは思いながらも熱が入らなかったのではないだろうか。
 以後、彼は美術の世界に入っていく。もちろん、画廊は一日1000円の光熱費しか取らないので儲からない。むしろ出費の方がはるかに多い。こんな計算は誰にでもできること。いったい彼は何を見つめていたのだろうか。

(この文章の一部は1990年西日本新聞連載の「ふり返ると四半世紀・マルミツ画廊よもやま話」光安鐵男文を引用しています)