ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(45)―平田逸治の銅版画(その1)―

2008年10月21日 | 随筆
 1981年9月、平田逸治さんの三賞受賞記念展(北九州ビエンナーレ展大賞、日本国際美術展群馬県立美術館賞、北九州市民文化賞)がマルミツ画廊と画廊リブで行われました。
 まず、読売新聞に掲載された取材記事を紹介します。

 何でもないようなところに独自の世界を見出した平田逸治の作品は、創作を目指す人にとって「一番ふさわしい表現は、最も身近なところに隠されている」ということを教えてくれている。
 この人は石炭の二次製品をつくる新日鐵化学の社員で、もっはら機械の修理を仕事としている。このため、パイプ、バルブ、コンプレッサー、計器、ロボットなどが必ず画面に登場し、それらの多くは擬人化したように構成されている。・・・中略・・・だれもやらないこの手法を編み出してから「機械文明に浸された現代人の虚無をとらえたユニークな表現」と一応認められるに至るまで六、七年かかっている。辛抱強いというより、せっかちに成果を求めず、ごく自然に身の回りの機械の世界を追求し続けた、地道な非職業画家のいい面がもたらしたといってよい。
 

 だれもやらないこの手法とは、一体どんな手法なのでしょうか。同読売新聞では次のように書かれています。

 手法は広義にいうモノクロームの版画の一種で「転写デッサン」と呼ばれる独特のもの。発想のもとは日頃接する機会の設計図の表現らしいが、まずトレーシングペーパーに克明に鉛筆で描き上げて原画をつくる。その後はそれをマイクロフィルムで撮影し、さらに別のフィルムを使って焼き付けて仕上げ、最後は最初の手描き・原画にある人間の情念的なものの痕跡をそぎ落とした風にして見せている
 
 と説明されています。しかし、私にはよく分からないのです。そう思っているところに平田さんから展覧会の案内状が送られてきました。小倉井筒屋の画廊で、「今度技法の幅を広げた作品を展示します」とあります。できたらお会いして、分からないところを分かるように教えていただこうと思っています。

ギャラリーNON(30) 若松美術協会発足

2008年10月05日 | 随筆
 今年6月21日、若松美術協会が設立された。私が設立に係わるとは想像したこともなかったが、流れとしてそうなった。地元の方との交流は大事にしようと出品していた若松区文化祭洋画グループへの出品が流れの始まりだった。その洋画グループが今回の若松美術協会の母体となった。
 そもそも若松というところは石炭の積出し港として栄えた町で、遠くから働き口を求めて人が集まり、汚いしごと、きれいな仕事、富を得た人、貧しさから抜け出せなかった人、任侠を振りまいた人など様々な人々が集まった。一日の石炭荷役で握った金はその日うちに巷に撒かれ、それに群がった。すべての銀行も集まったと言う。儚くも花火のように一瞬を魅了した町である。こんな町に芸術が生まれないはずはない。
 作家・火野葦平らの著した「若松港湾小史」には1929年以前の若松が記録されており、戦後は文壇に復帰した火野葦平渾身の連載小説「花と龍」1953年や「女侠一代」1958年は、当時の若松を物語っている。
 マルミツ画廊が立ち上がった1965年から紐解いても、ボランタリー画廊「げってん」その6、7、23に紹介しているように多くの画家が画廊を往来している。1963年には、市が文化事業として「市民文化祭」を催すようになり、5市合併後は区単位の文化祭になっていった。しかし、不思議とも言えるが、若松には美術協会が誕生していなかった。
 過日、運営委員会を開き、第1回若松美術協会会員展を催すことが話し合われた。来年の7月と決まった。しかし、私は正直なところ、こういった美術団体は好きではないのである。正解などない絵画に審査をパスする競争が始まり、大賞を設けたら大賞の奪い合いとなり、それが絵画社会での身分証明や資格になるからである。他の殆どの美術団体はそうなっている。まあ、そうは言うものの、お付合いは大事だし、ボランティアも悪いことではない。そう思って世話役をこなしていたところ、その運営委員会で、賞は設けないで、多様な表現を持ち寄り感想なり意見を述べ合うような語り合う展覧会にしようとリーダー格の方々から発言があった。なんだか嬉しくなり、もう少し世話役を続けてもよいと思ったのである。