ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その35)―若松高校同窓会総合文化展―

2007年10月25日 | 随筆
 高校の同窓会が文化展を盛大に開くこと自体が、そんな時代もあったと懐かしく思える今日です。最近の高校の同窓会はどんなことをされているのでしょうか。
 1980年2月、第二回 若松高校同窓会総合文化祭は、約300点の出品があり、第一会場:若松井筒屋5F、第二会場:マルミツ画廊。5日間の会期で行われ、西日本新聞社も後援する盛大なイベントとなりました。
 若松高等学校の同窓会は、旧制若松中、若松高女を含んでいます。
作品ジャンルは、洋画、日本画、書、写真、ちぎり絵、工芸、陶芸、民芸などと幅広く、出品者はプロ・アマを問iません。この文化展のポスターは、デザインが同展実行委員長の福田安敏(芸大出身・九州共立大教授)、図案が千原稔(国画会会員・美術教師)、島泉(示現会会員)の両画家、文字は光安芳堂(日展会員・書道家)で、全て手書きという豪華版となりました。それも僅か25枚しかありません。周囲の者からは外に張るのはもったいないとポスターの役割を忘れてしまったと言います。
 同窓会会長の吉野敏章(医師)は、次のように挨拶文を発信しています。
 「・・・昨年に続きまして若高同窓生による文化展を開催いたします。60有余年の歴史をもち、多方面で活躍されている方々が、趣味や専門を問わずに色々な作品を出し合って頂き、鑑賞を通していっそうの強いつながりが出来る事を願っております。・・・」
 昨年の第一回展は、「オッ、あいつがこんなことをいつの間に・・・」という感想が飛び交い、和やかな会場となりましたが、今年は「私も出品したいが手続きはどうしたらよいか」などの問合せが相次ぎ、東京、神戸など地元以外からの出品も増えました。
 39年卒の山下勝也さん(三船プロ所属の俳優・34歳)は、自主制作の映画「小さな胸の五円玉」を出品した。この映画は、その舞台になったインド政府から「印日親善に貢献した」と賞が贈られており話題を呼びました。
 「げってん(その26)」でも触れたように、俳優・天本英世も若高OBです。突然帰省してこの展覧会の前夜パーティーに参加してを盛り上げます。
 
 この若松高校同窓会文化展は7回までしか記録がありません。なぜ7回で止まってしまったのかはっきり分かりませんが、多分、熱心な牽引者に不都合が生じたのでしょう。第6回展では同窓会館を建設するための募金を呼びかけており、総工費5千万円のうちこれまで4千万円を集め終え、あと1千万円への暑い思いが滲んでいます。その目標を7回でたっせいしたからかもしれません。なにしろ、横尾龍彦(西ドイツ在住画家)、正本 嘉(画家)、尾中昭子(七宝焼)、高田静江(画家)らのプロとして活躍しているOBの作品を展示してその売上げの一部を会館建設資金に回していました。
 第7回展では、人間・玉井政雄展(1910~1984、火野葦平実弟、旧制若松中学卒・東大卒、福岡日々新聞社(現西日本新聞社)入社、戦後は東筑紫短大で教鞭の傍ら作家活動、北九州を舞台にした小説、伝説、郷土史などを手がける)のコーナーを設け、多くの一般客を集めました。

 社会的な成功者であるかないかに関係なく、一級でも学年の差があると「先輩!」「おい後輩!」と呼び合う同窓会だったといいます。今日からみると懐かしい光景です。

げってん(その34)―森三美素描展―

2007年10月04日 | 随筆
 与志枝さんが畳紙にくるまれたお父さんの絵を出してきました。光安は「親父の絵はない」と聞いていましたので大変驚きましたが、きっと母の冨美さんが絵に無頓着な正美さんより嫁の与志枝さんに管理をまかせたに違いないと思いました。
 素描46点、油絵4点、それに坂本繁二郎が恩師である三美さんに出した絵入りの書簡が出揃いました。光安はこれは大事ではなかろうかと察し、画廊顧問の福田安敏先生や西日本新聞に連絡をとり作品に対する向合い方や解釈の仕方について所見や情報を集めました。
 「櫨の国の画家たち」を著した、西日本新聞社の吉田浩さんは、
 「森三美は名前ばかりが先行して、作品についてはあまり知られていない。これほどの作品が没後67年経ってあらわれるとは実に興味深い。作品は日本洋画の創世記を裏打ちする繊細で緻密な線、正確な把握力がある」
 と評価します。
 大宰府から駆けつけた谷口鉄雄元北九州市立美術館長は
 「これだけの人がいたからこそ、繁二郎や青木繁など天才が生まれた」
 と激賞します。

 マルミツ画廊の人脈を総動員して、1980年5月11日、森三美素描展はオープンしました。西日本新聞社の吉田浩さんは、この展覧会を紹介する見開きの案内状を次のようにしたためました。
 「筑後は、日本で最も画家密度の高い地域である。青木繁、坂本繁二郎や古賀春江、あるいは現存の田崎広助や藤田吉香など、日本の洋画檀史に欠かせない多くの画家を生んできた。現在も東京、地元で重要な位置を占める画家は数えきれなく、洋画の“筑後人脈”を形成している。この山脈の源が、青木、坂本に手ほどきし、大画家の道を切り開いた森三美である。・・・」
 展覧会は画廊を通りすがりに立ち寄る人は少なく、遠くから馳せ参じる専門家、研究者の注目を集めました。
 「明治中期に洋画を学び、美術教師としての真摯な姿勢がある」
 「初期印象派の画風を学んでいる」
 「才気溢れるというよりも、精密な線で克明に描かれており、日本洋画黎明期の一画家が、真剣に対象に立ち向かっている」
 「若い青木繁が好んで用いた青紫が多い」
 「"肥前田舎風景"は他の作風とは異なり、坂本繁二郎あるいは松田諦晶の風景を思わせるタッチと色彩だ」
 いずれも見る眼が研究的です。おそらく筑後洋画山脈についていろんな仮説を立て、議論をふくらませるに違いありません。

 展覧会はさらに波紋を広げ、先に行動を起した久留米市の石橋美術館がこの作品を移動して拡大展覧会を開きました。北九州市美術館は地元から発信したい気持ちから名誉挽回を図りましたが成功しませんでした。
 光安は声を強めて
 「この展覧会は面白かった」
 と回顧しています。