この世の人生を終えて次の世に移っていく際に、大勢の人々を集めて別れの儀式をする人もあれば黙ってそっといなくなる人もいる。「げってん」こと光安鐵男は後の方の人だった。
河伯洞の玉井史太郎氏から、「会報を届けようと光安さん宅を訪れたら、家が売りにでていて応答がなかった。光安さんは今どこにいるのか、どこへ届けたらいいのか教えて欲しい.」と電話がかかった。光安は、店を廃業したあと、「市営住宅が当たったら移る。」と言っていたので、さては引越ししたかなと思って、そう言って電話を切った。
玉井氏も驚いたに違いないが私も驚いた。移ったのはこの世ではなく、もう3ケ月も前に次の世に移っていたのだった。2011年(平成23年)12月14日、脳梗塞で逝ったという。1935年3月生まれなので76年と9ヶ月の人生だった。なぜ一言私に知らせてくれなかったのか。家族はそっとしておいて欲しいと言う。
このブログにも記載したが、光安鐵男は戦時に脊椎カリエスを患い生死を彷徨った。その後ペニシリンに救われ、この世を生きることになった。しかし、長生きはできないだろうということで採算度外視の人生が始まったのだ。高度経済成長はそんなラフな生き方でも十分許容した。めがねは注文でつくるというより作れば売れた。夕方になるとナショナル金銭登録機から札をつかみ出して酒を飲んだ。1965年に始めた画廊は自分の果たせなかった夢の形を変えてたものであるが、周囲はまだ展覧会馴れしていない。使用料なしで個展を勧め、案内状は作ってやり、報道関係にも会わせるし、展覧会が終わればお疲れさんとばかりに酒を振舞った。画廊の採算など全く度外視していた。そうまでして、ようやくマルミツ画廊という名前が知られ、若松という半島の一角にある画廊であっても展覧会の申し込みをする人が増え始め、やがて行列ができた。
何かを生みだし創り出す人は先の先をイメージして走る。だから周りの者はよく分からないからその人は足が地に着いていないといい、言い出したらきかないといい、ついに「げってん」の称号が与えられることとなる。画廊46年間の営みは、2000回を超える展覧会が催されたことになる。半間幅の階段を上がると何の変哲もないクリーム色の壁のある部屋、単なるドンガラ部屋が現れる。しかし、そこに一たび30点の絵が壁に掛けられると、幾人もの人が往来し始め、会話が交わされ、その人間関係はさりげなく続き、やがて深まり、簡単に消え去ることのない幾重にもひろがる人の輪ができる。それが画廊で、その中心に居るのが画廊主で、それが光安の創り出した無形の価値だと私は思う。
私ごとであるが、1998年、初めて自分の描いた絵を人目に晒したのはこのマルミツ画廊だった。そのおかげで私の体にも形の無い服が纏わり、余生を多くの人と関わりをもって過ごすことができるようになった。最初に出会った絵の師にもお別れを言わずじまいだったが、私の絵画生活の素を与えてくれた画廊主・光安鐵男とも別れの言葉を告げることができなかった。あんなに賑やかなことが好きな男がそっといなくなるなんて。忘れることの出来ない人になったということか。
“私の立ち位置は、光安鐵男に対するメッセージをご家族にお届けすることはできます。まだあまり遠くまで行っていない光安に後ろからでもメッセージを投げ渡したいと思います。どうぞご遠慮なくこのブログのコメント蘭、あるいは私のメールアドレスにメッセージをお寄せ下さい。” mail:nozue-i@lapis.plala.or.jp