ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その19)-みちのくから来た絵かき-

2007年06月29日 | 随筆
 ・絵を描きはじめてからの健治は、周りの人が驚くほど人が変わります。釜石に住む長姉栄子さんが九州旅行の途中に健治に会った時のことを日記にこう書いていました。「小倉駅の改札口を出ると、いた、いた。写真で見るより太って中年くさくなっていたが、まず世慣れているようにも見られ、ひと安心」と。健治は姉にこれまでの放浪生活を語ったのち、「今はすっかり落ぢづいたから、すんぺえいらね」と言いました。
 ・知り合いの結婚式に出ても、酒は一滴も飲まず、夜は4畳半一間のバラックをアトリエにして、夢中で絵を描きます。

「仔牛」1977年・長谷川健治作・若松児童ホームに送った絵

 ・その頃、近くで造船業の社長をしている谷川さんが、個展の案内状を持って梁川商店を訪ねます。・・・これから先の話は「げってん(その9)」につながります。
 ・谷川さんの案内状をみた健治は、自分が描いたといって、このところ描いたばかりの絵を谷川さんに見せました。健治の絵を一目見た谷川さんは、無策に引っかいたとしか思えない絵の具の盛り上がり、塗り残されているキャンバスには下塗りの手順もみられないことから、「これは酔っ払いの描いためちゃくちゃな絵だ」と思ったのか、絵画の基本や構図の解説を始めます。しかし話しているうちに、絵から漂う不思議な雰囲気と、健治の画境が次第に伝わってきました。「うーん、おぬし、できるな」と言わしめたのです。
 ・長谷川健治のその後については、またの機会に綴ることにします。話は「げってん(その9)」の時系列まで戻し、主人公も「げってん」さんに戻すことにいたします。

(この文章の一部は「みちのくから来た絵かき」光安鐵男著を引用しています。同書はマルミツ画廊が数冊所持しておりますので、お入用の方はご連絡下さい。)



げってん(その18)-みちのくから来た絵かき-

2007年06月28日 | 随筆
 ・ちょっと仮置きしておいた漬け始めたばかりの梅酒が、健治をもとの木阿弥にしてしまいました。牛の世話をほったらかし、精神病院から救ってくれた恩など忘れてしまったように、酒の自動販売機を蹴ってはうろつきまわる人間に成り下がってしまいました。梁川さんの名前をかたって数日間飲み歩き、倒れているところを梁川さんの回したトラックに、まるでぐにゃぐにゃした荷物を放り投げるように積み込まれ、梁川商店に連れ戻されました。
 ・梁川さんは健治を素っ裸にして、部屋にある着る物すべてを取上げ、家の中に閉じ込めました。それでも健治は黄金バットのように毛布だけをまとい、ふらふらとまた出て行たのです。やがて梁川夫妻は行き倒れ状態の健治を見付けて病院に担ぎ込みますが、酔っ払いを診てくれるところはなく、何軒目かの吉澤病院が脱水状態の健治を救います。眠っている健治の寝顔に引き付けられるものを感じ、少し元気の出た健治に夕食まで与えて。

 ・健治は夢を見ていたのでしょうか。夜中に目を醒まし、牛舎の一角から星空をみあげます。故郷を出て以来、さすらい続けていたこれまでの人生を思い、改めて安堵の胸をなでおろし、つぎに大きな自己嫌悪の思いがこみ上げてきます。精神病院の服を全部新しいものに、夜具も新品を。食事は家族と一緒に。休日には海水浴、ドライブ、バイキング料理の食べくらべなど、楽しみを全て分かち合ってくれた梁川夫妻。再び掛け布団を目のあたりまで引き上げて眠ろうとしますが眠れず、明けきらない朝から起き出して、牛舎の掃除を始めました。
 ・フランス生まれのシャロレーは見事なイエローオーカーの肢体をくねらせて健治に媚びます。ブラッシングしているとその線の美しさにめまいを感じました。「ベベも俺も生きている、ありがたい、描きたい、描いておきたい」、沸きあがる作画意欲を抑えきれず本町の野中響美堂へ走り込んで画材を求め、その日のうちに5枚の絵を描きあげました。7年ぶりの筆とナイフです。

「黄色い牛」1976年長谷川健治作
展覧会でこの絵を求めたのは画家だった。

げってん(その17)-みちのくから来た絵かき-

2007年06月27日 | 随筆
 ・アルコール中毒(アルコール依存症)は一滴の酒を飲むと倒れるまで飲むといった、いわば自分を制御できなくなる病気です。繰り返すと廃人か死です。しかし、治す薬はありませんから、酒を絶ち、酒を飲まない意志を醸成するしかありません。しかも一滴たりとも手を出すともとの木阿弥です。精神病院は隔離された生活をすることができ、酒を断つことはできますが、果たして酒を飲まない意志を醸成することができるのでしょうか。
 ・少し正常を保つことができるようになれば、野外作業に出してもらえますが、目を放した隙に墓地の墓石のふたをとって酒瓶を見つけるし、ヒマワリ畑の水遣りをさせたら、放水に用いるビニールホースを隠しもち、外泊できる患者を手なづけて、それに焼酎を入てホースを素肌に巻きつけて来させたり、酒のことでは驚くべき知恵を働かせたのです。そのため、3年もの入院をよぎなくされ、開放されることになります。1975年、39歳のことでした。
 ・同じアル中治療で入院していた人の紹介で若松の古鉄回収業の梁川商店で働くことになりました。店主の梁川正夫さんは、法律を学んだ学士ですが、脱サラしてこの仕事をする異色の人です。奥様とは学生時代に結ばれました。小倉の刑務所からでてきたばかりの人が、ここを訪れ一宿一飯の恩義を感じて出て行くことあり、近所のじいさんがリヤカーを引いて古鉄を持ち込んで金をもらうとリヤカーを置き去りにしますが、しばらくして刑事と同業者が盗まれたリヤカーを取りに来ることあり、事情聴取で奥様が警察に。そんなこんなの人々が往来するのは人間・梁川さんの魅力でありましょう。
 ・豆腐のようになっていた健治の体はこの店で鍛えられ再び頑強な体になっていきます。この店を往来するのは人間ばかりではありません。飼うことを認知している動物は少ないのですが、小動物達は自由気ままです。オオムのアッ子ちゃんは
「ハセガワ、オーイ、ハセガワ」と店主の声そっくりに健治を呼びます。シェパードのアニラは金庫番です。ニワトリ達は梁川フャミリーの蛋白質を提供します。ウサギ、山羊、アヒルも居ます。
 ・牛肉の輸入で酪農業者が廃業し始めた頃、梁川さんは牛を飼うことを始めます。古鉄回収で鍛えられた健治でしたがその牛を担当することになりました。やがて牛の数は50頭にもなり、洞海湾の浚渫や製鉄所で生じる石炭ガラで埋立られた若松北部の広大な地の一角にある梁川商店はその敷地の半分を牛が占めるようになります。牛舎の片隅の小さな家で寝起きをする健治は、朝早く一通り牛の世話を済ませると、市街にでて食堂の残飯を集め、配合飼料と混ぜて牛に食べさせます。牛はうるんだ大きな目で健治に体を摺り寄せてきます。
 ・ある日、届いた配合飼料をとりにコンテナの中に入った時です。キューと胸を締めつける妖しい気分になりました。奥さんが漬けたばかりの梅酒の瓶があったのです。青青とした梅だけが残った瓶を奥さんが見つけたのは夕刻のことでした。健治はそのころ、この世を儚んだような目をして軒下をさまよう人になっていました。

「船・小屋」1985年長谷川健治作
健治が住んでいた当時の若松の埋立地を思わせる。

げってん(その16)-みちのくから来た絵かき-

2007年06月19日 | 随筆
 ・津軽を渡ってエキゾチックな函館の街へ、そして、又北へ。酒の量が増えます。オホーツクの流氷を眺めていると自分の今の有様がはっきりと感じ取れて、はらはらと涙します。
 ・再び津軽海峡を渡り山形へ。寒河江市十部一峠の道路工事現場で働きます。しかし、ここでも又、虫垂炎の手遅れで3時間の手術と2ケ月の入院です。豪雪の季節が来て飯場を離れます。
 ・三度、東京銀座へ。磯谷画廊で「エルンスト展」を見てショックを受けます。「世界にはすごいやつがいる」「あいつは絵かきの敵だ」と酒をあび、叫びながら銀座四丁目で倒れます。健治の酒はどうやら笑い上戸でも泣き上戸でもなく、酒に挑む玉砕型の呈を帯びてきました。
 ・健治は血を売り、酒を飲んで、路傍で絵を描いています。経済の急速な発展は健治のみならず急進派の人々が健治を巻き込みます。「なぜキャンバスに描かなければならないのか」「なぜ絵具で描かなければいけないのか」「なぜ個展は画廊なのか」、ヒッピーたちは地下道路や人の肌に絵を描いています。しかし、やがて孤立し、一人二人と姿を消していきました。1969年、健治は33歳になっていました。
 ・釜石を出てから10年、健治は新潟の護岸工事の現場にいました。ここでも相棒の事故死に遭遇します。どこに行ってもハプニングです。このあと大阪に下った頃は、一度飲み始めると止まらない酒になっていました。朝から晩まで昼も夜も、幾日も。浅い眠りから覚めるとまた飲みます。食事をしないので体力をなくし、体が酒を受けつけなくなるまで飲み続けます。渇酒症というアルコール中毒です。この病気は、甘えん坊で自己中心、身勝手な寂しがりや、一人っ子や末っ子に多いとある。社交性もあり、子供っぽく陽気にはしゃぎ、自分の長所にうぬぼれるほどの自信を持っている。しばしば特殊な芸術的才能を示したりするが、人格は未成熟とまで言われても否定できない健治です。
 ・さらに広島の福山へ下り、次に九州へ向かいます。浅間山荘事件(1972年)のニュースを久留米まで行くという長距離トラックに便乗した助手席で聞いていました。小倉の横市組の作業員宿舎へ向かいます。公共事業の下請けでトビ職の手元として働きます。そのうちこの宿舎で大阪時代の友に思いがけなく再会します。修羅場をくぐった仲間なので当然のように酒盛りです。友とはいつのまにか別れ健治は酒の魔性に捉われ、若松競艇場で保護され、若松警察署の留置場で目が覚めます。このまま帰しても自傷他害の恐れありと精神病院へ送られます。この病院で辛くて、おかしい3年間の治療が始まるのです。


げってん(その14)-みちのくから来た絵かき-

2007年06月16日 | 随筆
 ・東京は、新宿原町のお寺の下宿棟に寄宿。どこへで行くにも徒歩。サンドイッチマンや公募展審査での作品運搬のアルバイトをしながら、空いた時間には多くの画塾や美術館を回り、これから絵の道に進むための情報を集めます。
 ・東京芸大の実技試験には自信があったが、学科に自信なし。芸術学者を育てるところで芸術家を育てるとろではなさそうと受験をあきらめます。
 ・都立美術館では毎年約80団体が公募展を開催、うち日展系が約20団体、あとは在野の団体。団体間の勢力争い、団体内の力関係、審査の有り様など日本独特の官僚的ともいえる世界を知ることになります。
 ・美大生と一緒に共同アトリエに入りますが、芸術論は噛み合わず、ビエンナーレ国際展では新しい前衛的な作品が続々と出ているのに、彼らの卒業制作は形、形の追求で、はみ出しのない作品にがっかりします。美大とはそういうものかと分かるのです。
 ・それぞれの団体の公募展は絵画の国際的なトレンドに気付き、日展系の団体でも抽象画を歓迎するようになり、団体展の持ち味が失われ始めました。健治は公募展を見合わせ、「読売アンデパンダン展」の趣旨(日本アンデパンダン展と同じ趣旨)が気に入って出品しようと思うのですが、発注芸術と陰口されるほど材料を製材所で引いてもらったり、鉄の塊を鉄工所ではつってもらったりでお金と体力がいる展覧会です。健治はその金を稼ぐため沖仲仕の仕事を求めて横浜へ向かいます。
 ・手配師の誘いにのって横浜港の埠頭で荷役の仕事に就きます。厳しいランディング・チャージ(荷役契約)のもとでランを切る(契約期間より早く荷役を済ませる)ために急き立てられ、ピンはねられ、眠る時間を削る重労働をしなければ手許にお金は回ってきません。
 ・遂に力尽きて労働下宿を抜け出し、汐見橋付近で熱を出して倒れているところを酒屋の主人に助けられます。恩返しに酒の配達を手伝うことになります。健治の働きぶりや人柄が酒屋の家族や配達先に好かれることになります。やがて酒屋の養子の話が持ち上がるようになっては、絵が描けなくなると恩ある主人に打ち明けて、とらさんのドラマよろしくこの家を出ます。
 ・一度は東京の共同アトリエに戻ってみるものの、すっかり様子が変わって浦島太郎。しごく簡単に当てのない旅に出てしまいます。演歌のように北へ向かって行きます。本当の放浪者に身をやつして。

げってん(その13)-みちのくから来た絵かき-

2007年06月12日 | 随筆

 1985年・「梟の親子」長谷川健治
 
・1960年、長谷川健治は、,繋ぎ止めていたロープが外れて、ゆっくりと離れていく船のように、富士製鉄という頑丈な係留の場を離れて行きました。
 「ロボットのような人間になるな」と父に言われて育った健治。
 軍鶏(シャモ)を飼っている露天商に取り入り、鳥小屋の掃除や水運びを手伝い、闘鶏に負けた鳥の肝臓を、目を患った母のためにもらって帰った健治。
 巣立ち前の梟(フクロウ)の雛を捕まえようとして親梟の襲撃にあい木から落ちた健治。
 釜石方言の暮らしの中に突然標準語の女の子があらわれ、そのこに「逃がさないで」と言われて必死で鮭を捕まえた健治。
 まもなく鉄と鮭の争いがあって鮭の姿が消えたことを嘆いた健治。
 「赤城の山も今宵限り」と言いながら木炭を持った右手を一杯に差し出してデッサンしていた健治。
 兄の大切にしていた時計や本を友人のために売ってしまった健治。
 製鉄所の運動会、拝借競争で応援団長のカードを引き当てたが本部席の秘書課の女性をの手を引いてゴールした健治。
 身勝手で甘えん坊で寂しがり屋の自由人の釜石を離れる引き金を引いてしまった大きな動機は、やはり母の死だったようです。
 死の枕元には
 「今はただ 我もしゆきし あとばかり おもいわずらい 一人かなしむ」
 「病みつつも しみじみ思う 幸いを 持つべきものは 子供なりとは」
 と詠まれていました。

(この文章の一部は「みちのくから来た絵かき」光安鐵男著を引用しています)

げってん(その11)-みちのくから来た絵かきー

2007年06月03日 | 随筆
 「みちのくから来た絵かき」は56のエッセイをつないで構成されており、初めの15は長谷川健治の生い立ちや家族のことが書かれている。要約すると、
 ・1936年、父鶴松と母ヒサとの間の5人兄弟の末っ子として岩手県釜石に生まれる。
 ・父は東京で修行した料理人で無類の酒好き。そのために母は大変苦労しながら5人を育て、その生活をいつも詩に詠んでいた。
 ・1945年春、ヒサの生まれ故郷秋田県大曲市に疎開。終戦後再び釜石にもどる。
 ・釜石第二中学校時代、兄の勤める富士製鉄釜石製鉄所の美術サークルの講習会に職員に混じって参加。石川滋彦画伯(新制作協会)が健治 の画才に驚き絵具セットをプレゼントしている。
 ・1952年、釜石高校入学。美術部と水泳部に所属。石膏デッサンなど絵画の基礎を学ぶ。中学校時代の美術教師、菊地君雄先生の勧めか影響で、読売アンデパンダンテ展、県展に出品。
 ・1954年、長兄克夫が結婚、両親が製鉄病院社宅に移り住んで、高校3年の健治は兄夫婦と暮らすも健治のワルサで兄の怒りを買い大学進学をも支援してもらえなくなる。
 ・高校卒業後、天性の自由人としてはもっとも相応しくない、自衛隊で2年間の隊員生活を体験する。
 ・1956年、富士製鉄に入社。規律厳しい保安係に配属。
 ・製鉄所の楽団でドラムに興味を持ち、流行の太陽族よろしく自前のドラムを給料10ケ月分の借金で購入。キャバレーでのトロンボーン奏者欠員を狙って給料6ケ月分の借金でトロンボーン購入。高いキャバレーの時給で楽しみながら借金を返そうとするも、上司からキャバレーでの副業を止められる。将来は自分の楽団をつくる夢は破れ、失恋、借金を払ってくれた母の死と悪いことが続き、何をしても枠カらはみ出してしまう健治の心に、眠っていた絵心が目を覚まし始めます。
 
 遂に、すべてを釜石に捨てて長い旅立ちが始まります。

 出釜石
 ゴットン。列車の連結器が音と同時に健治の体を小さく揺すりました。ぼーっとしていた健治を、いよいよ出発だゾ、とうながしたようです。あわてて立ち上がった健治は、下がっていた窓を引き上げて止めました。閉じられた窓はコトコト音をさせます。わずかな隙間から煤も慌てて紛れ込み、健治の白いワイシャツに止まりました。大正時代につくられてような立て付けの四両編成で走るこの列車を、地元ではカラス列車と呼んでいます。釜石から花巻まで全長90キロの北上山地を、バタフライの選手のように、40回以上も顔を出したり潜ったりするので、列車も乗客もカラスのようになるからです。
 (中略)
 製鉄所が窓の向こうに消えると、我家のある中妻町の辺りです。八雲小学校が見え、左の窓には第二中学校、今度は右に昭和園グラウンド。どこもここも健治が慣れ親しんだところばかりです。
 (中略)
 超一流企業のサラリーマンを、あっさり退職させたものはいったい何だったのでしょうか。やはりそれは寂しがりやの健治には堪えられないオフクロがいないという寂寥感なのです。そんなもの足りないような、飢えたみたいな渇きを感じている健治の気持ちをみたすものは、自由な「創作」だと次第に心は燃えてくるのでした。自分もまた「いつか死ぬ」と考えたとき東京に出て絵を描こう。「自分自身の人生ではないか」という思いに至ったのでした。
 (後略)
(この文章の一部は「みちのくから来た絵かき」光安鐵男著を引用しています)