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1985年・「梟の親子」長谷川健治
・1960年、長谷川健治は、,繋ぎ止めていたロープが外れて、ゆっくりと離れていく船のように、富士製鉄という頑丈な係留の場を離れて行きました。
「ロボットのような人間になるな」と父に言われて育った健治。
軍鶏(シャモ)を飼っている露天商に取り入り、鳥小屋の掃除や水運びを手伝い、闘鶏に負けた鳥の肝臓を、目を患った母のためにもらって帰った健治。
巣立ち前の梟(フクロウ)の雛を捕まえようとして親梟の襲撃にあい木から落ちた健治。
釜石方言の暮らしの中に突然標準語の女の子があらわれ、そのこに「逃がさないで」と言われて必死で鮭を捕まえた健治。
まもなく鉄と鮭の争いがあって鮭の姿が消えたことを嘆いた健治。
「赤城の山も今宵限り」と言いながら木炭を持った右手を一杯に差し出してデッサンしていた健治。
兄の大切にしていた時計や本を友人のために売ってしまった健治。
製鉄所の運動会、拝借競争で応援団長のカードを引き当てたが本部席の秘書課の女性をの手を引いてゴールした健治。
身勝手で甘えん坊で寂しがり屋の自由人の釜石を離れる引き金を引いてしまった大きな動機は、やはり母の死だったようです。
死の枕元には
「今はただ 我もしゆきし あとばかり おもいわずらい 一人かなしむ」
「病みつつも しみじみ思う 幸いを 持つべきものは 子供なりとは」
と詠まれていました。
(この文章の一部は「みちのくから来た絵かき」光安鐵男著を引用しています)
このまま家に眠らせておくのは
可哀想かなと思ってます。
展覧会など計画してるなら、使って頂きたいと思います。