ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(57) 上関町・祝島

2012年09月12日 | 随筆
 NHK・TVが番組「里山」で上関町・祝島を報じていた。枇杷(びわ)をつくっている農家が取り上げられていた。私が小学校上学年のころ(60年も前のことになる)、叔父が連れて行ってくれた島だ。
 叔父は満州開拓の厳しい終焉の後、帰国して教師の仕事に就いた。やがて祝島小学校の校長として赴任した。単身赴任だが楽しそうな日々の話を聞くにつけ、行って見たいと思っていた。夏休み、確か10歳年上の兄と一緒だったと思うが、連れて行ってくれることになった。私達家族は光市に住んでいて、貧しさの極みにあったが山と川と海には恵まれていてそんな中で育ってきた。しかし、島に行くのは初めてで、ワクワクしていたと思う。エンジン音が体にビリビリ伝わってくるくらいの小型船で上関から祝島に向った。お椀を伏したような島にどんどん近づいて行って、簡単な木造の桟橋に着いた。ミシミシと桟橋を歩いていると、澄み切って綺麗な海が足元に広がっていた。ザブーンと飛び込みたい衝動を抑えながら叔父について行くと、これまた粗末な民家に入って行った。そこは官舎になっていて、近所のお母さんたちが交代して食事の支度や清掃などに当たっていた。
 私はあの澄み切った海が頭の中に溢れ、ちょっと見てくるといって官舎を出た。一目散で桟橋に向うと数人の子供たちが海岸で遊んでいた。パンツ一つになって私も海へ入った。祝島の想い出はこの海と近くのおばさんたちの自然な優しさと、夜9時の停電サイレンだった。島に自家発電がついて、夜は発電を停止していた。
 蝋燭の灯かりのもとで叔父に言われた言葉を覚えている。
 「お前は将来、音楽か絵の先生になったらどうか」
音楽や絵は勉強しなくても良い成績だったし楽しい教科だった。何も世間を知らず、音楽や絵は遊びの教科で将来の仕事になるなんて思ってもいなかったし、ピンと来なかった。ただ将来のこと考えなくてはいけないのだと思った。

 それから30年経ったころ、化学会社で研究・開発・特許・ナノケミストリーといった言葉の世界に塗れていたが、絵を始める出会いがあった。音楽はクラシックギター教則本の中級の中ほどまで進んでいたが、薬指を追って指が曲がらなくなり断念した。絵は続いている。
 その叔父は17年前、満州で生き残った友らの歌う満州開拓の歌に送られて旅立った。
 
 美しい祝島よ、守られよ。島の電気は自家発電で充分だった。電気は電気が欲しい人が手許で作り出せばよい。未完の技術で美しい自然と共に暮らしている人々を苦しめるなんて、技術者のすることではない。