ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(47) 分かってくれたと思ってしまう(2)

2010年08月26日 | 随筆
 「水彩画は紙と絵具とがあれば描ける」 これは水彩画の世界にお誘いするキャッチコピー。実は紙と絵具に水と筆が加わり、それをどう操るかが重要で結構手ごわい。
 私のところに集まってくれる生徒さんの場合、老後の楽しみになればと思って来られる方が多いので、あまり難しいことは避けたいところ。しかし、私は最近、少し難しくとも基礎のところを習得しなければ老後の楽しみにも達しないと思うようになっている。
教室の一年間の流れは基礎→応用→自由制作としている。例えば基礎のところでは、フラット・ウオッシュ、グラデーション、ウエット・イン・ウエット、ウエット・オン・ドライなど一通りのことを手本を真似る形で習得する。次に応用に入る。モチーフを用意して描く上でのポイントを告げそれに注意して描き進める。一年間の最後の仕上げは自由制作。これを毎年繰り返せば螺旋階段を上がるように次第に高いところに行ける筈である。
 
 ところが、この螺旋階段の勾配が私の想定とは異なってゆるいのである。やっぱり、分かってくれたと思ってしまうせいだろうか。分かってもらうところまで達するには、本当はもっと教える方教わる方ともに膨大なエネルギーが費やさないといけないのだろう。美大、さらには画家を目指す若者たちが、何ヶ月、何年間も石膏像と向き合って基礎的な観察力を養成する。これをそっくり趣味の絵画を目指す人々にあてがうことは出来ない。別に彼らに相応しいカリキュラムを見出さねばならない。いつの間にか基礎の部分は分かってくれていると思ってしまっている。誰もが望む、短時間で効果の大きいレッスン。それを見つけなければ趣味の画家達にとってのよい指導者とは言えないだろう。

私自身の体験してきたレッスンを思い出してみよう。中学校の時始めたテニスでは、一年生の時は球拾いと素振り。30歳で始めたゴルフでは10畳くらいの狭い部屋でスイングの基礎を教わった。球を打ってもすぐ目の前のネットに当たるので球はどこへ飛んでいくのか分からないのが歯がゆかった。40歳を過ぎてはじめた絵の場合は、月に2度、土日の二日間を朝から日暮れまで描き続けるという、いわば特訓型のレッスンで基礎を身に付けたように思う。こうして思い起してみると私自身の場合は始める時の集中する時間が長かったといえる。だから短時間で効果の大きいレッスン方法を見つけることはわたしにとっては未体験の領域ということになる。私の絵の師匠は基礎をしっかりする方が早道だと言われた。それを信じて教える側のエネルギーはレッスン方法の見直しに集中してみよう。

ギャラリーNON(46)  分かってくれたと思ってしまう(1)

2010年08月24日 | 随筆
 夏休みの時季になると思い出す。
 次男が小3のころだったと思う。夏休みには日頃できないことをさせてやりたいと、山口県光市に住む私の姉の家へ一人で行かせることにした。ここ新幹線小倉駅から徳山駅までの45分間だけの一人旅である。鉄道には駅というものがあり、こだま号のスピードの話、所要時間の話、長い距離を短くしてあらわす地図の話などをして、おおかた分かってくれたと思った。
 小倉駅ホームにこだまが入ってきた。列車の乗降口には10人くらいが列をつくっていた。息子の直ぐ後ろに20歳くらいの若者が並んでいた。
 「どちらまで?」
と聞いてみた。
 「三原です」
つづけて私は、
 「この子を徳山まで一人で行かせます。本人は分かっているとは思いますが、もし降りないようなら教えてやってくれませんか」
 「はい、いいですよ」
と快い返事をもらった。これで間違いはないと若松の家に帰って、姉からの電話を待った。小倉駅から若松に帰る所要時間と小倉から徳山までの新幹線の所要時間はほとんど同じで、帰り着くと程なく姉から息子を受け取ったことの電話が入るはずである。
電話がかかった。
 「降りてこなかったよ!」
 「えっ、どうゆうこと?」
 「それは、こっちの台詞よ!」

 すぐさま姉は徳山駅に飛び込み、駅員は次の駅、次の次の駅へと連絡をとってくれた。
 およそ一時間半のサスペンス。息子は下り列車で徳山駅に降り立った。

 「降りようと思ったのだけど、お兄ちゃんがもっと先だよというので」
不安になってムズムズしていると、お兄ちゃんが念のため、どこで降りるのかと聞いてきた。「徳山」と答えると、お兄ちゃんは慌てた。「福山」と思っていたのだ。その時、列車は新岩国を通り過ぎ広島に近づいていた。お兄ちゃんは息子を広島駅に降ろし、駅員に事情を話して徳山に戻してくれたのだ。
 小倉駅で一言頼みごとをしたあのお兄ちゃんは、お盆休みを前にして帰省する風情だった。息子の手には兄ちゃんの少ない小遣いからの千円札が握られていた。推測するに乗り越し運賃を支払わせようとしたのだろう。乗り過ごしの運賃は不要だったのに。
 私は大きな迷惑をかけてしまった。謝りたい、礼を言いたいと思うのだが名前も住所も何も聞いていないので兄ちゃんに連絡をとる糸口がない。
 兄ちゃんの聞き違いが原因ではあるが、「三原」の隣の「福山」と聞えたのは当然ではある。息子は「徳山」を確実に分かっていると思ったが、兄ちゃんの方が間違っていると言えるほど自信はなかったのも無理からんところだ。分かってくれていると思ってしまった私の失敗である。