数年前の市民展覧会でのこと。
小学生の子供と手をつないでゆっくりと展示の作品を見ながら歩みを進めている。
「この絵が一番上手だね」
と子供。その子はしばらくその場で360度見渡して、
「どうして、この作品に金紙が貼ってないの」
と親の顔を見やって聞く。
親は応える。
「どうしてだろうね」
私がその子の親だったらどう応えただろう。簡単には応えられない質問で、しかも応えてあげなくてはならない相手は純真な子供である。簡潔な言葉でなければならぬ。
その子が上手だと指差した作品は、細密に描写した具象画であって誰もその絵の前で足を止める。実によく描いている。
展覧会には殆どの場合、審査員がいて彼らの判断基準で入選・入賞者を決める。審査員の数が多いほど評価はばらつき、少なければばらつかないけれども偏る。
絵の評価は、科学技術の世界のようにデーターに基づいた客観的な答えを導くものではなく、主観的で抽象的なもののようである。絵の評価基準の一つを無理やり言葉にすれば、「想いの拡がり」というのはありうるだろう。
先の絵は、実に対象をよく観察して描写してあり、形や質感や色を上手く写し取っているのだが、その絵の前に立っていると、作者の対象に向かっている真剣な姿勢を想像することができる。しかし、そのことに引き込まれてそれ以上の想いを膨らませることをさせない作用があるのだ。こんな絵を描く人は絵が上手な人なので、想いを拡げさせる表現に困るものらしい。
「絵は下手でいいから、良い絵を描けばいい」
などと、分かるけど納得までには至らない話になる。
私がその子の親だったら、
「その絵からどんなことを思った」
と聞き返すことにしよう。そして、返ってきた言葉から上手い絵と良い絵の話に導こう。
最後に、
「この人、来年はきっと金紙が貼られるだろうね」
といって楽しみにさせようと思う。
小学生の子供と手をつないでゆっくりと展示の作品を見ながら歩みを進めている。
「この絵が一番上手だね」
と子供。その子はしばらくその場で360度見渡して、
「どうして、この作品に金紙が貼ってないの」
と親の顔を見やって聞く。
親は応える。
「どうしてだろうね」
私がその子の親だったらどう応えただろう。簡単には応えられない質問で、しかも応えてあげなくてはならない相手は純真な子供である。簡潔な言葉でなければならぬ。
その子が上手だと指差した作品は、細密に描写した具象画であって誰もその絵の前で足を止める。実によく描いている。
展覧会には殆どの場合、審査員がいて彼らの判断基準で入選・入賞者を決める。審査員の数が多いほど評価はばらつき、少なければばらつかないけれども偏る。
絵の評価は、科学技術の世界のようにデーターに基づいた客観的な答えを導くものではなく、主観的で抽象的なもののようである。絵の評価基準の一つを無理やり言葉にすれば、「想いの拡がり」というのはありうるだろう。
先の絵は、実に対象をよく観察して描写してあり、形や質感や色を上手く写し取っているのだが、その絵の前に立っていると、作者の対象に向かっている真剣な姿勢を想像することができる。しかし、そのことに引き込まれてそれ以上の想いを膨らませることをさせない作用があるのだ。こんな絵を描く人は絵が上手な人なので、想いを拡げさせる表現に困るものらしい。
「絵は下手でいいから、良い絵を描けばいい」
などと、分かるけど納得までには至らない話になる。
私がその子の親だったら、
「その絵からどんなことを思った」
と聞き返すことにしよう。そして、返ってきた言葉から上手い絵と良い絵の話に導こう。
最後に、
「この人、来年はきっと金紙が貼られるだろうね」
といって楽しみにさせようと思う。