NHKテレビが追悼式を実況するというので、構えてテレビの前に座った。2時46分、全ての被災地に鳴り渡るサイレンに合わせて私も黙祷を捧げる一人になった。祈らないでは居れなかった。
黙祷しながら、脳裏に現れたのは昭和20年の大阪大空襲で逃げ惑っている母と私の姿である。父や兄姉達は、焼夷弾の破裂で飛び散っためらめらと燃える油の小塊を軍手で壁から剥ぎ落としていた。先に逃げろと怒鳴りつけられて、5歳の私は母に手を引かれて防空壕へ走った。壕の中には同じような親子が沢山避難していた。そのうち、シューと渇いた音がしたと思うと防空壕の入り口の柱や梁が燃え始めた。悲鳴をあげて皆が反対側の入口に走り寄るとそこも燃え始めていた。母はあとで「もう駄目かと思った」と言っている。「誰かが水をかけてくれて炎が弱まったので助かった」と。それからどう逃げ惑ったかは分らないが、かなり大勢が入れる建物にたどり着き、母と私はそこで身体を寄せ合って数日間を過ごしたと聞かされている。運良く、父と兄姉たちとは無事でここで再会を果した。命だけは失わずに済み、命以外には何も無い7人家族の人生がここから始まることになったのだ。命だけから始まる人生という意味で、大津波災害とよく似ている。
どん底からのスタートは、長い時間かかるが僅かづつでもよくなる。だから、希望を持って歩みはじめて欲しいと思う。
黙祷しながら、脳裏に現れたのは昭和20年の大阪大空襲で逃げ惑っている母と私の姿である。父や兄姉達は、焼夷弾の破裂で飛び散っためらめらと燃える油の小塊を軍手で壁から剥ぎ落としていた。先に逃げろと怒鳴りつけられて、5歳の私は母に手を引かれて防空壕へ走った。壕の中には同じような親子が沢山避難していた。そのうち、シューと渇いた音がしたと思うと防空壕の入り口の柱や梁が燃え始めた。悲鳴をあげて皆が反対側の入口に走り寄るとそこも燃え始めていた。母はあとで「もう駄目かと思った」と言っている。「誰かが水をかけてくれて炎が弱まったので助かった」と。それからどう逃げ惑ったかは分らないが、かなり大勢が入れる建物にたどり着き、母と私はそこで身体を寄せ合って数日間を過ごしたと聞かされている。運良く、父と兄姉たちとは無事でここで再会を果した。命だけは失わずに済み、命以外には何も無い7人家族の人生がここから始まることになったのだ。命だけから始まる人生という意味で、大津波災害とよく似ている。
どん底からのスタートは、長い時間かかるが僅かづつでもよくなる。だから、希望を持って歩みはじめて欲しいと思う。