囲碁・将棋のような勝負の世界で、「その手で来たか」とつぶやく場面があるが、俳句にもいろいろな手があると教えてくれているのが、荻原井泉水の俳句入門書とも言うべき「俳句の手」である。1937年発行のA5判、356ページ、定価1円50銭。本とはありがたい。
俳句の作り方を「手」として解きほぐすのは、文学、あるいは自由な表現を勧めるためにはよろしくないことだと、作者も書いているが、絵画でも同じことが言える。こんな風に描く「手」があるおんだと教えるのは、よさそうに思えてよろしくない。しかし、初心者をその道に誘うには、いくつかの道があると教えてあげるのは必要なことで、この道しかないと強引に引っ張っていくのはよろしくないということであろう。教わるほうとて、教えてもらったその手しかないと思い込んではいけないということになる。
荻原井泉水は活花(いけばな)を例にして、一つの「手」として言葉を活かすことを解説している。
よく次のように言う人がある。「自由律俳句は文章の一片を切り取ってきたやうなものではないか」と、それは其人が非難するつもりで言った言葉だけれども、実は少しも非難になっていないのだ。
あたたかな雲ばかり 秋兎死(アキトシ)
無我無心にして春の空に見入っておる作者の気持ち・・・その雲と作者とが一枚のものになっている気持ち・・・が是でよくでているではないか。その雲は羊のやうな形をしたのや、大鳥のやうな形をしたのや、いずれも皆あたたかさうな感じの雲ばかり、いういうとして大空に遊んでいるのだ。・・・かういふのは一輪ざしの壷に一輪の花を活けたやうなものである。・・・すべて、感じたことを「ああ美しい」と書いただけでは文学にならない。その美しさを解析する心の働きが、詩を作るといふことにあるのだから、厳密に言へば、たった一つの物やたった一つの心では俳句にならない。それは活花の一輪ざしにしても、一つの花では活けたことにならない。花に茎の調子を見せるか、その花に葉が幾枚かあるその葉を生かし添えることで活花になるのだ。普通には、最小限度として、二本の枝を用いる。そうして、その一本づつの枝がただの真直ぐな枝ではなくて、枝から枝が出ているものだから、その小枝を数えると、四つとも五つともなる。言葉にして数へれば、四つとも五つともなるのがその道理である。兎に角、活花にあっては、「活花」といふ名称の示すが如く、「活かす」ということが眼目である。自然から切ってきて一度死んだ枝といふものを、新しく活かすことが肝要なのである。寧ろそれが自然にあった時よりいっそういきいきと見えるやうに活かすことこそ、魂をいれることなのである。俳句に於いても、その点は同じであって、言葉を切り出してきて、その言葉を新しく活かすのである。即ち、普通の文章に於いては味わい得ぬ程にいきいきと、その言葉を活かすことにこそ、俳句の精神は光るのである。
うーん、やはり私の描きたい絵の描きたいと思う気持ちは、「活花」や「俳句」の精神に通づるところがある。「あたたかな」という心と「雲」という物を「ばかり」で括っている一輪ざしのような句。いままで、描くときの気持ちを人に説明しようとはおもっていなかったので、こう説明されるとしっかり頷いてしまう。
俳句の作り方を「手」として解きほぐすのは、文学、あるいは自由な表現を勧めるためにはよろしくないことだと、作者も書いているが、絵画でも同じことが言える。こんな風に描く「手」があるおんだと教えるのは、よさそうに思えてよろしくない。しかし、初心者をその道に誘うには、いくつかの道があると教えてあげるのは必要なことで、この道しかないと強引に引っ張っていくのはよろしくないということであろう。教わるほうとて、教えてもらったその手しかないと思い込んではいけないということになる。
荻原井泉水は活花(いけばな)を例にして、一つの「手」として言葉を活かすことを解説している。
よく次のように言う人がある。「自由律俳句は文章の一片を切り取ってきたやうなものではないか」と、それは其人が非難するつもりで言った言葉だけれども、実は少しも非難になっていないのだ。
あたたかな雲ばかり 秋兎死(アキトシ)
無我無心にして春の空に見入っておる作者の気持ち・・・その雲と作者とが一枚のものになっている気持ち・・・が是でよくでているではないか。その雲は羊のやうな形をしたのや、大鳥のやうな形をしたのや、いずれも皆あたたかさうな感じの雲ばかり、いういうとして大空に遊んでいるのだ。・・・かういふのは一輪ざしの壷に一輪の花を活けたやうなものである。・・・すべて、感じたことを「ああ美しい」と書いただけでは文学にならない。その美しさを解析する心の働きが、詩を作るといふことにあるのだから、厳密に言へば、たった一つの物やたった一つの心では俳句にならない。それは活花の一輪ざしにしても、一つの花では活けたことにならない。花に茎の調子を見せるか、その花に葉が幾枚かあるその葉を生かし添えることで活花になるのだ。普通には、最小限度として、二本の枝を用いる。そうして、その一本づつの枝がただの真直ぐな枝ではなくて、枝から枝が出ているものだから、その小枝を数えると、四つとも五つともなる。言葉にして数へれば、四つとも五つともなるのがその道理である。兎に角、活花にあっては、「活花」といふ名称の示すが如く、「活かす」ということが眼目である。自然から切ってきて一度死んだ枝といふものを、新しく活かすことが肝要なのである。寧ろそれが自然にあった時よりいっそういきいきと見えるやうに活かすことこそ、魂をいれることなのである。俳句に於いても、その点は同じであって、言葉を切り出してきて、その言葉を新しく活かすのである。即ち、普通の文章に於いては味わい得ぬ程にいきいきと、その言葉を活かすことにこそ、俳句の精神は光るのである。
うーん、やはり私の描きたい絵の描きたいと思う気持ちは、「活花」や「俳句」の精神に通づるところがある。「あたたかな」という心と「雲」という物を「ばかり」で括っている一輪ざしのような句。いままで、描くときの気持ちを人に説明しようとはおもっていなかったので、こう説明されるとしっかり頷いてしまう。