ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

ギャラリーNON(40)  画廊開設45年目

2010年01月24日 | 随筆
 マルミツ画廊の新年会を催した。宴を始める前に短い挨拶をした。
 「新春色紙・小品展への出品に感謝します。」
 「マルミツ画廊は1965年に開設されました。画廊主は、中央展の会期を終えたら家の物置に入れて置くだけで、地元の人には見せる機会も無く朽ちるだけだとぼやく絵かきを友に持っていました。持ち帰った作品の展示場所を何とか提供してやろうと、営んでいた眼鏡店のディスプレイを片寄せて展示を始めたのが画廊の始まりと記録されています。あれから45年経ちました。作品発表の場はグローバルなものになってきており、作品発表の場の提供というこの画廊の役割りは充分果たしたと思います。画廊主の代行をするようになって早くも5年経ちますが、今後は余生を楽しむかのようなスローテンポで、地域の方に喜んでいただける画廊として続けていこうと思っています。」
 45年前と言えば私は25歳。ちょっと仕事に馴染んで、ちょっと小遣いが出来て、独身寮の仲間と3人でどうにか乗れそうなブルーバードの中古車を買って使い回していた頃である。そのブルーバードは方向指示器がバナナのようなランプがカタンと水平に出るものから、チカチカ点滅するランプの光に変わったものでした。ガソリン代を捻出するために知恵を絞った結果、寮の黒板に次のような掲示をしました。
 「100円タクシー始めました。区内ならどこまで行っても100円」
あっという間に人気の白タクとなり、寮の連中が飲んで帰るときに呼び出しの電話で飲み屋さんまで馳せ参じたものでした。この稼ぎはかなり軌道に乗って、そろそろ深夜の呼び出しは寝不足になるので断りの掲示をしようと思ったころ、その愛車は大金の掛かる故障を起して廃車になってしまいました。
つまり、食べることは確保できたので、少し遊びにもお金を使い始めた頃が1965年だったと言えそうです。
 絵描きさん達は、このころからようやく大きなキャンバスと絵具を買い求め、東京へ出品を始めたのでしょう。
地域に画廊など殆ど無く、あっても高嶺の花だった。そこに生れたのが無料のマルミツ画廊だったのです。
 しかし、無料とは言え、自分の作品を発表しようとする気持ちは当時まだ希薄だったようで、なかなか画廊はスケジュールは埋まりませんでした。個展ともなると本腰で取り組む必要があります。画廊主はその気にさせる(発表させる)ための作家の発掘が始まります。
 今はどうでしょう。
「お宅の画廊なら何人の客が来るの?」
と問われて、その程度の集客ではお断りね!と言われかねない時代となりました。発表の場は無数にあり、もはや、地域というより国境を越えて発表できるようになりました。ただ、変わらないのは良い作品であることです。

 新年会の来客のスピーチに、
 「絵は感動を与えるものではなかろうか」
といわれた方がありました。私には腑に落ちる発言でした。この時代、感動を与える作品とはどんなものでしょう。今年は一点でよいから釘づけになるような作品に出会いたいものです。