ボランタリー画廊   副題「げってん」・「ギャラリーNON] 

「げってん」はある画廊オーナとその画廊を往来した作家達のノンフィクション。「ギャラリーNON]は絵画を通して想いを発信。

げってん(その1)

2007年03月30日 | 随筆

 「げってん」とは九州北部の方言で「頑固者」の意。頑固という言葉の奥には「一徹」、「清廉」、「ひねくれ」、「やんちゃ」、「へそまがり」など人間臭い意味がある。私が知ることになったそんな人のことを書きたい。その人の名は光安鐵男72歳、マルミツ画廊主のことである。
 1965年11月3日、眼鏡店の壁付けディスプレイ棚が撤去され、L字状の壁に国画会の出品を終えた油絵の大作を並べてマルミツ簡易画廊はオープンした。
 いささか絵画に興味のあった彼は、ある日、美術教師のかたわら中央展に出品している若い画家の家を訪ねます。三畳のアトリエで冷酒を酌み交わしているとき、突然、画家は言い出します。
「地方に住んでいる画家は寂しいですねエ! 真骨を削って描いた絵も東京の展覧会に出品が済むと地元の誰にも見てもらえず、こうしてしまうだけです。自分を納得させるだけの繰り返しですが、これでは全くマスターベーションです。尤も、絵かきなんて描き描き人生ですが」
 彼は、この愚痴とも洒落ともとれる話を聞き捨てにはできず、酒の勢いもあって店舗の壁面を地方の画家たちに開放することを約束した。
 1965年と言えば、戦後の高度経済成長が国民の一人一人に感じられ始めた頃。画材が買えるようになり、長い冬眠から覚めて絵を描き始めた頃。しかし、まだ発表の場が多くは与えられていなかった頃である。
 眼鏡フレームと油絵大作との取り合わせは異様であるが、流石に油絵の存在感は強烈である。眼鏡店の小さな応接セットはやがて画家たちに占領されることになり、彼は眼鏡の仕事は職人さんに任せて、自分は毎晩画家たちと冷酒を酌み交わし、出費はあっても一銭も儲けにならない画廊主へと転身していくのである。げってんらしさの始まりである。
(この文章の一部は、1990年、西日本新聞連載「ふりかえると四半世紀・マルミツ画廊よもやまばなし」を引用しています)

ギャラリーNON(11)-スケッチ展-

2007年03月17日 | 美術

半年前に八幡・信用金庫のギャラリーから展覧会を勧められ、OKしていた。
充分時間があると思っていたが三週間後になってしまった。
「スケッチ展」にしようと考え、この冬、スケッチポイントを求めて八幡の街を散策した。
八幡は皿倉山の裾に広がる街、622mの山頂からの夜景は素晴らしい。光の海の中に黒く横たわる洞海湾は昔、石炭の積み出し港として栄えた。
このスケッチは、洞海湾の奥の方での一枚。

ギャラリーNON(10)-堤防-

2007年03月11日 | 美術

 遠賀川は筑豊炭田の中を流れる一級河川。
明治時代はこの川で石炭を洗い、そのまま船で若松港へ運び、そこから多方面に運搬していた。
その後、石炭エネルギーの地の利を生かして近代化のための鉄を作ろうと国策が布かれた。
洞海湾に面した八幡村で製鉄工場を作ることにし、
船の輸送力では需要に追いつかないから川沿いに鉄道が敷かれた。
遠賀川は石炭を洗うだけとなり、黒い川になったと言う。
石油エネルギーの時代になって石炭は斜陽化し、川は次第にきれいになった。
 今は市民の憩いの場。とらさんが寝転がっているかも知れない。
毎年咲き群れる菜の花は大好きな風景の一つ。
近くの方々の奉仕のお陰だと感謝している。 

ギャラリーNON(9)-土に触れて暮らす-

2007年03月02日 | 美術

 今、住んでいる家は築70年を過ぎている。妻の両親が、1935年頃、きな臭くなったハワイから帰国して建てた。周囲は田と畑で沢のような川の側に家はある。東西南の風は遮られるが北側が開けており海が見える。湧水は年中涸れることはない。
 居候と寮生活に飽きた独身の私は、この家に出会い、頼んで下宿させてもらった。大阪生まれとはいえ、田舎で育った私には願ってもない心地よい暮らしが始まった。400坪の土地は半年も放置しておくと藪になる。私は中学生のころ、一町もある棚田の土手の草刈りをしていたので鎌の仕事が得意、この家の周囲の草刈りを進んでした。
 この家を建てた時、電信柱を建てたのが悪評であったと言う。何も無い田畑の中では奇異な風景だったのだろう。私が下宿を始めた1966年ころはかなり家が建ち始めていたが、まだまだ長閑であった。
 その後、妻の両親は他界し、今は私がこの家を継いでおり終の棲家にとまで思っているが、それが最近すこし怪しくなってきた。
 ある日、竹林から間引いて切った竹を燃やしていると、市の環境課から数人駆けつけてきて市条例を書いたA4一枚の紙を示し、違反しているから直ちに消しなさいと怒られた。50センチの長さに切って、一枚50円のゴミ袋を巻きつけて一般ごみとして出せというのだ。大変な労力と金がかかる。
 またあるときは市から電話があり、近所から苦情が出ているので草を刈れというのである。蚊が多いのはうちの畑の草のせいだという。
 公道とうちの領域の境界に笹竹があって生垣の代わりをなしている。それを腰の高さに切りそろえてきれいにしたら、なぜかアルミ缶やペットボトル、時にはコンビニ弁当の殻が投げ込まれ始めた。
 ペットブームとなり、猫は自由に出入りして、柔らかい土があったらそこを糞をする場所に決めている。
 電柱より少し高いくらいの銀杏の木があり、実は付けてくれるし、金色に色付いたときはとても美しい。散り始めると屋敷周囲は金色の絨毯となってまた美しい。ところがこれが近所の苦情となる。樋が詰まって困るというのだ。
 そういえば、周囲にはすっかり家が建ち混み、我が家はもはやコロシアムの底にいるようである。良いところといえば、常に誰かからみられているので泥棒は仕事がしにくいことと、朝は小鳥の囀りに起されて、目覚まし時計が要らないことくらいである。70年前は電信柱で悪評を買ったが、70年後の今はそれどころではないのである。もう土に触れながら暮らすことはできないだろうか。