夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

<パリ同時多発「テロ」 > 「何をすべきか」より、「何をしてはいけないか」を考える その1

2015-11-21 05:29:00 | 政治

 11月13日、パリを武装集団が同時多発的に攻撃し、多くの犠牲者が出た。すぐに、フランス大統領フランソワ・オランドは、この攻撃が「イスラム国」によるものだと断定した。それは、間違いないだろう。また、多くの政府とマスメディアは、この行為を「テロ」と呼んでいる。確かに、恐怖を与えることや一般市民を標的にしているという要素から考えて、これを「テロ」と呼んでも間違いとは言えない。しかし、この「テロ」という言葉の定義は極めて曖昧で、常に敵に対して使われる言葉であり、状況の変化によって変わり得るということは認識していなければならない。かつては、PLOパレスティナ解放機構もネルソン・マンデラが副議長だったANCアフリカ民族会議も、アメリカのメディアやロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、ベンヤミン・ネタニヤフが「テロリスト」と呼んだのだから。

<1>命の価値は同じだとみなされていない

 今回の事件で、129人の死者が出ていると報道されているが、重体者を考えれば、死者はさらに増えるだろう。これにはフランスはもとより、多くの国で哀悼の意を表す行動が行われているが、至極もっともなことだ。しかし、既に忘れられていることがある。11月12日パリの事件の前日、レバノンのベイルートであった「テロ」事件である。Newsweek電子版によれば、これには「イスラム国」の犯行声明があり、43人の死者と240人以上の負傷者が出たという。どちらも、むごたらしい惨劇である。しかしこれに対しては、哀悼の意を表した行動が行われたという報道はまったくない。日本の民放テレビ局に至っては、パリの事件に関する特集で、レバノンの事件にはまったく触れない。ゲストで呼ばれた中東問題専門家の高橋和夫放送大学教授も、軍事専門家の小川和久も知らない筈はないのに言及しようとはしない。さらに言えば、内戦下のシリアでは、このような殺戮は毎日のように行われている現実がある。すべて、パリの事件と同じようにむごたらしいものだ。にもかかわらず、パリの事件だけが大々的に報道されるのである。

 報道による大きさの違いは、戦闘によるものだけには限らない。例えば、「後進国」のバングラデシュでは、度々洪水に見舞われ、1970年に30万人、1991年に138千人の命が奪われている(Bio Weather Serviseホームページ)。とてつもない数の犠牲者である。しかし、先進国の人間で覚えている者は稀だろう。これだけの数の犠牲者が先進国であれば、マスメディアはどのように報道するのであろうか? 

 マスメディアの報道は、その国の政府や所謂世論の反映でもある。報道が政府の政策や世論に影響を及ぼすが、反対にマスメディア自体も政府や世論の影響力の一定の範囲内にある。政府の意向や世論を無視しては、マスメディアは「商売にならない」からである。つまり、先進国での報道は、先進国の人びとの意識の反映でもあるのだ。

 先進国の人間の命と後進国の命の価値は同じ扱いでは報道されない。これには、人間どうしの近さの度合いもないとは言えない。隣近所の人が死んだのと、遥か遠くの見知らぬ人が死んだのとは同じようには感じられない。確かに、それはそうだ。それと同じ理屈で先進国どうしの間には親しみと近さがあるとも言える。心理的にはそのような理由から、報道の大きさになって現れるのかもしれない。だがしかし、それが世界をどう見るのかに明らかに影響しているのだ。何をすべきかに影響しているのだ。先進国の人間の命の価値が、後進国の人間の命の価値より明らかに大きいという心理的な要因が、世界で何が起きているのかの判断に影響しているのだ。

 2001年以降、アフガニスタンから中東に至る地域で、数万人の一般市民が「標的爆撃」、無人機攻撃、ゲリラ攻撃、不当な拘束、CIA顧問による拷問によって殺されている。数万人というのは、正確には分からないという意味であり、分からなくなるくらいの多くの命が失われているという意味でもある。米軍または有志連合による結婚式への爆撃は度々報道されているが、今年の10月にはアフガニスタンで国境なき医師団の病院すら爆撃されている。こういった「後進国」の人びとの命は、パリで殺された人びとの命よりも、明らかに先進国が「何をすべきか」の判断には影響力が低いのである。

 イスラエル人が1人殺されれば、パレスチナ人を10人殺すというのは、イスラエルの戦術的方針だが、これと同じ論理が先進国の政策の中にも意識的か無意識的にかにかかわらず、反映されている。だから、パリの事件後、G20などのあらゆる国際的な会議・機関でも、たちまち反「テロ」が主要な優先課題になるのである。先進国、中国・ロシアはもとより、先進国の機嫌を損なうわけにはいかないその他の国へも大きな影響を与えるのである。ジョージ・W・ブッシュの唱えた「テロとの闘い」(正確には「テロとのグローバル戦争Globol Wor On Terror`」)もその延長線上にあると言える。9.11のニューヨークでの5000人の犠牲者は、アフガニスタンや中東での数万人の犠牲者よりも、遥かに大きな影響力をもち、Worすなわち軍事的行動を選択させたのである。

<2>攻撃すれば、攻撃される

 オランドも首相のマニュエル・バルスも「武装したテロリストによる組織化された戦争行為だ」と言った。確かに、戦争に違いない。だが、二人とも肝心なことを忘れている。戦争ならば、攻撃すれば攻撃されるという極めて単純な論理をだ。フランスが何もしないのに攻撃されたというのではない。フランスは北アフリカのマリ北部への軍事介入を始め、シリアへの空爆にも参加しているのだ。攻撃されて、反撃しないなどという国家も武装勢力も世界には存在しない。だからこそ、フランスすぐさま「イスラム国」のラッカを爆撃したのだ。その命令を下したのはオランド自身なのだ。

 フランスが攻撃されたのは、直接的には「イスラム国」を空爆しているからだと考えられる。それは、空爆が正しいか否かなどとは関係がない。空爆が正しければ、反撃されないなどということはないからだ。また、欧米の攻撃が戦闘員を標的にし、それに付随する「誤爆」によって一般市民を殺している(数は膨大だが)のに対し、「イスラム国」は戦闘員も一般市民も見境なく殺しているということととも関係がない。殴られれば殴り返す、相手側はただそれだけの行動とったのである。

 

 

 

 

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