もはや、五輪が強行開催されるのは、間違いなさそうだ。世論調査でも6月に入り、読売新聞、JNNとも、中止・延期が減少し、観客制限を含めた「開催すべき」が全体の半数近くにまで達した。5月までは、日に日に開催中止の意見が強まっていたのだが、6月なって反転した形だ。これは、どうせ開催されるのだから、少しでも安全にやってもらいたい、という一種の諦めの気持ちから来るものだと思われる。JNN調査で、無観客と観客数制限が計8%増えたことが、それを表している。政府も組織委員会も、この「開催すべき」の増加に図に乗り、それまでの無観客から有観客に方針を切替つつある。
強行開催される五輪が、惨憺たる結果になるのは間違いない。変異株の脅威と相まって、感染は日本にも、海外にも拡大するだろう。また、選手を派遣できる国と派遣できない国、五輪に向けた練習を満足にできた選手とできなかった選手、それらの五輪史上最悪の不公平な大会となる。さらに、最近は忘れ去られたようになっているが、日本の酷暑により、選手、関係者に体調を崩す者が続出するだろう。6月で既に30度を超える日がある日本の7月8月は灼熱地獄のようなものであり、コロナウイルスともに、危険であるのは明らかである。
これほど惨憺たる状況が誰にでも予見可能な五輪を強行開催する責任は、一体誰にあるのだろうか?
首相の菅義偉は、国会答弁で「私は主催者ではない。東京都、組織委員会、IOCなどによって最終協議される」(6月7日)と言い、自分に責任はないと、早 々と逃げ口上を使っている。これは、菅自身がいい結果に終わるはずはないと予見していることを、暗に認めたようなものだが、主権国家の政府が拒否すれば、五輪などできるはずはないのは自明であり、「馬鹿げた」としか言いようのない発言である。主権がIOCだというのは、単なる形式に過ぎない。2024年のパリもマクロン(マクロンは来年の大統領選に負けるだろうが)、がNonと言えば、実際には開催できない。
そもそも、五輪の誘致をしたのは自治体の東京都だが、政府の全面的支援によるものだ。これは、日本に限らず、全世界で行われていることだ。リオデジャネイロで、スーパーマリオに扮し、「次は東京」とアピールしたのは、日本の首相である。五輪が国家の威信をかけた行事であるのは、誰も疑うことはできない。
第一義的に、主権国家の中で行われることの責任が、出入国管理を含め、あらゆる秩序を統治する政府にあるのは当然のことである。
菅首相も西村康稔経済再生担当相 も、GoToトラベルが感染拡大の主要な要因であることの「エビデンス」はない、と言った。恐らく、五輪による感染拡大に対しても、この「言い訳」が使われるだろう。感染拡大には多くの要因があり、その内の一つの事象を主要因と結論づけるのは、容易ではないからだ。「エビデンス」がないと言えば、いくらでも言い逃れることができる。そこには、「見解の相違」が入り込むので、政府系の学者・評論家を総動員すれば、いかようにも言い逃れることができる。高橋洋一元内閣参与が、都合のいいデータだけを比べ、日本の感染状況を「さざ波」と言ったように、五輪と感染拡大は無関係と言い放つ学者・評論家を総動員すればいいのである。例え酷暑による熱中症で死者が出たとしても、暑さ対策は個人の責任、現場管理者の責任だ、と言えばいいのである。
五輪後に待っているのは、総選挙である。9月には、ワクチン接種もいくらかは進んでいると思われる。接種の優先順位を無視し、社会的不公平も不平等もかなぐり捨てて、全体接種数を上げることだけを目指す政府は、国民全体の接種人数が増えたことだけを宣伝するだろう。そして、ワクチンの接種率上昇とともに、感染も少しは抑えられている可能性がある。菅首相は、9月に解散、10月初旬に総選挙に打って出るだろう。その時が、政府の責任を問う唯一の機会なのである。
GoTo政策と五輪を強行し、科学とは正反対の感染防止対策をとり、医療を逼迫させ、1万数千人の死亡者を出した政府の責任を、国民はどう追求するのか? それが、この総選挙の意義となる。