テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

いまさらながら、、、

2013-07-02 22:51:09 | 日記
こんなブログを続けていて、全くもって今更なのですが、世にあるいろいろなアイテムの評価は、個人的な好みや趣向の影響が避けられない故、完全に客観的なモノはあり得ず、更にはその評価を読み、参考にする人の主観に沿う可能性も未知数でしかないという事実を強く主張致します。
その上で、敢えて言いますが、最近の音楽ソフトの新録音の低調ぶりには、非常に残念な思いで一杯です。
と、いうか、明らかに品質が後退してるように思えます。
よくある旧い録音のデジタルリマスタリングは、確かにヒスノイズやスクラッチノイズが低減し、音の粒立ちが向上して、瑞々しく聴こえるようになり、決して無意味ではないと思うのです。しかし、例えば、古いモノラル録音のピアノソナタなど、オリジナルの状態で聴くと、こちらに響くメロディーを色濃く感じるのに対して、リマスタリングされたサウンドは、鮮烈で美しく綺麗なのですが、何か損なわれているように思えるのです。
まるっきりの新録音の場合は更に顕著で、当代きってのピアノ弾きの渾身の演奏が、いにしえのSP時代の、ピアノ弾きの演奏に劣るとは全く思わないのですが、なぜか最新録音機器で収録された演奏のメロディーは、綺麗なだけのように思うのです。
私の好きなピアノ曲で、フリードリヒ・グルダの「ゴロウィンの森の物語」では、数編の有名な曲の主題が、グルダの奇想により、見事に解け合って、最後のグルダ自身による切ない弾き語りのような歌で終わる至上の曲で、過去、これを勧めた人には、もれなく好評を頂いている、どこかの低倍率双眼鏡のような作品なのですが、途中、グルダ自身が微かな鼻歌(ハミング)でピアノと秘やかに共演し、下手にリマスタリングすれば、ノイズとして埋もれて消えてしまいそうなオッサンの鼻歌が見事な感動を生み出しているように思えます。
また、ジョン・ケージによる有名な、「4分33秒」という曲では、3つの楽章全てが”休め”であり、演奏される場合(ピアノが多い)は、演奏者がステージの上で、楽器に向かい、何もしない時間が続く、その様子に不審を抱く聴衆のざわめきや、きぬずれ、咳払い、などなど様々のノイズや、漂う???を耳と目と肌で感じることになるのですが、実際、この曲が収録された録音では、どんな最新最高の録音でも、この曲を再演することはできません。

いろいろと思うに、再生機器の主体がデジタル、しかもヘッドホン、イヤホンが多数を占めるようになってきたことと、最近の新録音の低調ぶりは無縁でないと思います。
「残響2秒」というザ・シンフォニーホールの建造にともなうお話を記した本があります。ライブ演奏ではクラシックに限らず、様々な響きが聴衆を包みます、以前のデンオンのクラシック録音のように、無指向性のマイク2本をメインとし、補助的に指向性マイクで薄くなりがちな楽器を拾うような凝った録音と違い、高感度高指向性のマイクを何本もオンマイクで狙い、DTM作業で編集したことが如実に分かるような録音では、綺麗で粒立ちの良いサウンドは聞こえるかもしれませんが、残響豊かなメロディーを聴くことは出来ないように思います。