三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2007/1/22

2000-02-25 03:17:40 | 映示作品データ
[Focus] 1996年
監督 井坂聡
金村…… 浅野忠信
岩井…… 白井晃

 「素人」を演じる浅野忠信の演技が素晴らしい。盗聴する以外は全く無害な内気な青年が、ディレクターにいいように振り回されたあげく、チーマーに絡まれたのをきっかけに突如キレて発砲し3人のテレビクルーを拳銃で脅して監禁するまでの流れも絶妙。ドキュメンタリー形式の映画としては最高の部類に属するだろう。キレまくりながら運転するときの音楽が、カーステレオのように聞こえなかったのが残念。画面内でなく上から作為的なBGMが入ってしまうと、一挙にフィクション仕立てを帯びドキュメンタリー色が中途半端になってしまう。むろん、現実のオクラ入りフィルムに後からBGMを付けられるには付けられるのだが。そしていずれにしても浅野忠信はこの96年の時点ですでに顔が売れすぎていたので、本当の素人インタビューの密着取材の素材映像だと勘違いする観賞者はほとんどいなかったと思われるが。

 無線盗聴の実態を正しく解説しており、テレビ取材というものの本質をも的確に伝えている。その意味で、この映画はフィクションでありながら、ノンフィクションの色彩が濃いと言えよう。それだけに、「しょせん盗聴マニアは根は凶悪犯」といった偏見を強める作用があり、なかなか危険な作品でもある。マスコミのヤラセ事件が後を絶たないが、ディレクターに再三テレビの自己批判を語らせているところも、二重三重の社会批評になっている。思えば、麻原彰晃の映像を視聴者に無断でサブリミナル挿入したオウム真理教のテレビ報道が問題となった直後のことである。

 最後まで声だけ出演で顔を見せないカメラマンが、ラストでもなにやら重要な役割を演じている。突発事故が起きても、撮るなと怒鳴られても決してカメラを回すのをやめないカメラマン精神は、盗聴マニアの執拗さと通ずるものがあり(盗聴マニアがコレクター的ならカメラマンはストーカー的だ)、この映画の隠れた主題と言っていいかもしれない。

2007/1/15

2000-02-24 15:42:22 | 映示作品データ
Why We Fight 『われらはなぜ戦うのか』(全7巻)
第1巻Prelude to War大戦前夜
製作:アメリカ陸軍情報部1942~1945年 
監督:Frank Capra 1897-1991

『或る夜の出来事』『失われた地平線』『スミス都へ行く』などで知られるフランク・キャプラのプロパガンダ映画。今回観た第1巻は、1942年度アカデミー最優秀記録映画賞を受賞している。
 ナチスの宣伝映画とされたレニの『意志の勝利』のシーンが多数、反ナチ宣伝という正反対の目的に流用されているのが面白い。作品それ自体は特定の政治性を帯びてはいないことがよくわかる。
 『われらはなぜ戦うのか』について、Wikipediaから一部引用すると、

The seven documentaries are:
Prelude to War (1942) (Academy award as Documentary Feature) - this examines the difference between democratic and fascist states, and covers the Japanese conquest of Manchuria and the Italian conquest of Ethiopia
The Nazis Strike (1942) - covers Nazi geopolitics and the conquest of Austria, Czechoslovakia and Poland.
Divide and Conquer (1943) - chiefly about the Fall of France
The Battle of Britain (1943)
The Battle of Russia (1943) part 1, part 2
The Battle of China (1944)
War Comes to America (1945) - shows how the pattern of Axis aggression turned the American people against isolationism.
Prelude to War and The Battle of China refer several times to the Tanaka Memorial – Its authenticity is still a matter of dispute, – portraying it as "Japan's Mein Kampf" to raise American morale for a protracted war against Japan.

最後の段落にあるように、日本政府の世界征服計画の証拠とされる「田中上奏文」はその存在が疑わしく、アメリカ国民の日本への敵愾心を高めるために言及されたようである(あるいはこの映画の制作時には信じられていたのかもしれない)。

 なお、キャプラは『汝の敵、日本を知れ』Know Your Enemy JAPANというプロパガンダ映画も作っている。
http://green.ap.teacup.com/miurat/446.html#comment

なお、レポート提出の要領については、↓のコメントをクリックしてご覧ください。

2006/12/18

2000-02-23 02:27:35 | 映示作品データ
■『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』Impressionen unter Wasser
 2002年、ドイツ
監督 Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール
撮影 Horst Kettner ホルスト・ケットナー
音楽 Giorgio Moroder ジョルジオ・モロダー
Daniel Walker ダニエル・ウォーカー

■『アトランティス』Atlantis
 1991年、フランス
監督 Luc Besson リュック・ベッソン
撮影 Christian Petron クリスチャン・ペトロン
音楽 Eric Serra エリック・セラ

 10月に3回に分けて観た『レニ』の終盤に、『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』の制作シーンが入っていたのを覚えているだろう。90歳を過ぎたレニが海に潜って撮影しては、パートナーのホルストといっしょにモニター見ながら熱心に編集作業していた。ホルストが動画撮影、レニはスチル写真撮影担当で、写真集が先に出版された。(『レニ』のときはまだ映画は出来ておらず、完成する予定もなかった)。
 代表的な海洋ドキュメンタリー『アトランティス』と比べると、同じような深さの海を撮っていながら、まったく印象の異なる映画になっている。『ワンダー・アンダー・ウォーター』は、広いアングルで撮らずに、あえて細部を注視している。その結果、構図は捨てられて色彩に集中することとなった。
 『アトランティス』のほうは、ダイナミックな構図と動きで、生物よりも海という環境を表現対象としている。色彩はブルー主体で、色が捨象されたことでコンポジションとダイナミズムが抽象された結果になっている。

 両作品とも、オープニングに説教じみたナレーションが入るのがあまり感心しない。メッセージも表現も通俗で陳腐であるため、本編の説明抜きの芸術的な仕上がりとの間にズレを感じてしまうところがある。
 とはいえ、この2作を観比べるのは、映像芸術の「美的否定」手法の可能性を測定するのにふさわしい鑑賞法であろう。
 『ディープ・ブルー』(2003年、イギリス、ドイツ)や『エイリアンズ・オブ・ザ・ディープ』(2005年、アメリカ)といった他の海洋ドキュメンタリーを比較項に入れていくとまた否定手法の拡がりが見えてくるだろう。

2006/12/11

2000-02-22 00:54:12 | 映示作品データ
『ゆきゆきて、神軍』

 突発的な暴力の数々、犠牲になった兵士の遺族の離脱、ニューギニアへ同行するはずだった元戦友の母親の死、ニューギニアでの撮影記録の没収など、予期せぬ出来事に見舞われて流れがあらかじめ読めない構成が、密着取材型ドキュメンタリーの特徴だろう。ハプニングの最たるものが、奥崎自身による殺人未遂事件である。映画の中で「大活躍」した奥崎の妻も、映画完成前に死去する。

 奥崎謙三主演の映画には、もう一つ、『神様の愛い奴』という、別の監督によるドキュメンタリーがあり、それは奥崎の出所から採っている。亡き妻へのラブコールなども含まれていて奥崎ファンはそれなりにしんみりできる映画だとは思うが、お薦めしない。観賞は『ゆきゆきて、神軍』だけにしておくのがよいと思う。サブカルチャー知識人たちが奥崎という「変なおっさん」をおもちゃにして、いいように弄んでいる感が否めず、観ていて気持ちのいいものではない。

 ハプニングとデザインの合間に成立した怪作として、『ゆきゆきて、神軍』は再三観賞に堪えるカルト映画になっている。

2006/12/4

2000-02-21 01:45:36 | 映示作品データ
『ゆきゆきて、神軍』

 「靖国神社」と聞いたとたんに、奥崎は逆上して山田元軍曹に殴りかかる。相手は老いた病人である。手術したばかりの体である。止めもせず淡々と撮っているカメラもすごい。
 ドキュメンタリーとは何か、を考える手掛かりがたくさん詰まっている映画だ。
 古清水元中隊長をはじめ、多くの上官や戦友を訪ねて得た証言がそれぞれ食い違っているありさまは、芥川龍之介の「藪の中」を思わせる。(「藪の中」は、黒澤明の『羅生門』(1950年)として映画化され、戦後の日本映画を一気に世界レベルに引き上げた。ぜひ観てほしい映画である)。

 『ゆきゆきて、神軍』が公開された1987年は、昭和62年。つまり天皇ヒロヒトはまだ生きている。在位中の天皇本人を「ヒロヒト」と呼び捨てにし罵倒し続ける奥崎の心理は、私たちには推測しがたいものがある。私(三浦)自身も、物心ついたときにはすでに天皇を「天ちゃん」と呼ぶような時代だったし、学生時代にこの映画を初めて観たときも天皇を罵ること自体については何とも思わなかったが、徹底した天皇制絶対主義のもとで教育された元皇軍兵士奥崎にとっては、天皇を罵り続けることは、全実存を賭けた生涯の仕事であるに違いない。戦争中の意識そのままに靖国神社で戦友を弔う山田元軍曹との違いが際立っている。二人とも、それぞれの真剣な気持ちで弔いをしているのだろうが……。

 なお、ニューギニアで人肉を食ったという話に「驚いた!」と書いていた人が何人もいるが、「白ブタ、黒ブタ」と称して敵兵の肉を食っていたのは、太平洋戦争の常識に属する。問題は、日本兵の死体も食べていたのか、さらには食うために殺していたのではないか、というところだ。
 映画の中でアナキスト大島が言っていたように、戦争というのはカッコいいものでも勇ましいものでもなく、惨めでブザマで汚いものなのだと宣伝されねばならないだろう。太平洋戦争での日本兵の7~8割は、餓死か病死、日本兵同士の処刑と殺人だったと言われ、勇ましく戦って死ぬことのできた兵士は少数派だったということを知らねばならないだろう。まともな戦闘になっていなかったわけである。
 奥崎の執念深い恨みつらみと暴走も、そういう観点から見なければならない。