三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2006/11/27

2000-02-20 01:32:19 | 映示作品データ
『ゆきゆきて、神軍』 1987年

監督 原一男
撮影 原一男
編集 鍋島惇

 奥崎謙三の経歴については、Wikipediaその他を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B4%8E%E8%AC%99%E4%B8%89

 奥崎の活躍中の当時の感想については、筆者の身許は確かめていないが、以下のような記事が見つかる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kowa2.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/yazitu25.html

 『ゆきゆきて、神軍』のような密着取材型の映画を観るときに注意すべきは、どこまでが奥崎の素の行動で、どこからがカメラを意識した演技なのかということである。そして、演技でないにしても、カメラの無言の挑発に乗って、行動がエスカレートしていくということもあるだろう。

 奥崎の行動は、単なるデタラメのようにも見えるが、一つの主義が貫かれていることに注意しなければならない。次回に観る部分で、終戦後23日も経ってから連隊長の命令で射殺された戦友の遺族ふたりとともに、射殺の真相究明の旅に出ることになるが、途中で、遺族が同行を拒むようになる。その直接のきっかけは、奥崎が戦友の供養にも立ち寄りながら殺人事件究明を行なったからで、遺族たちは、面倒な墓参りは省略したがったのである。死んだ戦友の供養こそが主目的だった奥崎は遺族らと決別し、その後は、遺族の「代役」を立てて真相究明の旅を続ける。代役を使うのだからヤラセであり、訪ねた相手を騙すことになるが、奥崎を撮ってゆく映画としてはヤラセではない。ヤラセ戦法で突き進む奥崎の行動の生のドキュメンタリー記録と言える。

 遺族との決別の経緯は映画では省略されている。また、戦友の母親に語りかけていたとおり、ニューギニア訪問も果たすことになるが、ニューギニアの記録部分はインドネシア当局に没収されたため、これも映画には含まれていない。

 奥崎の行動撮影から5年もかけて完成したこの『ゆきゆきて、神軍』は、なみのドキュメンタリーをはるかに凌ぐ傑作であると同時に、日本人の戦争との係わりを再考させる無二の素材と言っていいだろう。奥崎謙三という独特のキャラターに負う個的な要素と、太平洋戦争がいまだに日本に対して投げかけている暗影の普遍的要素とを識別しつつ、凝視すべき作品である。

2006/11/20

2000-02-19 02:03:33 | 映示作品データ
『放浪者と独裁者』The Tramp and the Dictator  2001年、イギリス・ドイツ 

 『独裁者』のメイキング映像、ナチス・ドイツ時代の記録映像(とくにレニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』!)を織り交ぜてチャップリンとヒトラーの人物像を並行的に描く。コメンテーターとして、チャップリンの息子・友人をはじめ映画監督、歴史家、SF作家などが登場し、それぞれのときには矛盾した見解を述べあうのも面白い。
 カラー映像で撮られたメイキングと作品本体の白黒映像を比べてみると、『独裁者』という作品が「美的否定」の手法をうまく利用していることがわかる。白黒どころか『独裁者』以前にはサイレントで通したチャップリンの芸術スタイルそのものが、ポイント集中型の美的否定に立脚していたとも言えよう。
 ヒトラーを揶揄することが、女性歴史家が言っていたように「独裁者を面白く思わせ、危険を忘れさせる」ので望ましくないのか、ブラッドベリが言うように「勇気だけでは対抗できない仕方で、悪を卑小に見せることができる」ので素晴らしいのか。ここでは、オスカー・ワイルドの次のアフォリズムを噛みしめておこう。
 As long as war is regarded as wicked, it will always have its fascination. When it is looked upon as vulgar, it will cease to be popular.
 (戦争が邪悪だと見なされるかぎり、いつまでも魅力を持っているだろう。戦争が低俗だと見なされるときに、その人気は失われるだろう)

 むろん、滑稽化し笑いのめすだけでは真の否定には届かない。ラストの「感動的な」演説によって上昇ベクトルを描いたことで、『独裁者』は総合的な風刺作品になりえた。チャップリンがあれほど作り直した結果やっと決まったフィナーレは、作品全体に完璧な構成をもたらしたと言えるだろう。

2006/11/13

2000-02-18 01:33:31 | 映示作品データ
『チャップリンの独裁者』The Great Dictator
  1940年、アメリカ

監督、脚本 Charles Chaplin
Charles Chaplin (トメニアの独裁者ヒンケル/床屋のチャーリー)
Paulette Goddard(ハンナ)
Jack Oakie (バクテリア国独裁者ナパロニ)
Henry Daniell (ガービッチ内相兼宣伝相)
Billy Gilbert (ヘリング元帥)
Reginald Gardiner (シュルツ司令官)

第二次大戦勃発を挟んで制作された作品。痛烈なナチス批判とヒトラーの戯画化のように見えるが、大半はドタバタギャグで、チャップリン得意のパフォーマンスの陳列会といった趣。歴史的事実とのゆるい対応、ドイツ語風デタラメ言葉の演説とラストの英語の真面目な演説との対照が、特殊な効果を醸し出している。チャップリンは、ヒトラーの危険な演説に対するアンチテーゼとしてラストの平和的かつ情熱的な演説を挿入したのかもしれないが、レニ・リーフェンシュタールの撮ったヒトラーの演説風景などを見ると、「愛」「平和」「共存」といった文句はそのままヒトラー自身が使っており、同時代に全体主義の危険を悟ることは難しかっただろうと痛感させられる。実際、この映画が作られた当時、アメリカの大学生対象のアンケートで「現在最も偉大な政治家は?」という問いに「アドルフ・ヒトラー」がトップになったりしていたのである。
 他方では、ヒトラーやムッソリーニがニュース映画に登場するのを見るたびにアメリカ人は爆笑していたとも言われ、その「へんてこさ」は直観されていたようである。ただその奇妙さをマイナスの方向へ印象づけるのに、この映画は独特の貢献をしたと言えよう。
 チャップリン初のトーキー映画であるとともに、「チャップリンスタイル」の喜劇としては最後の作品。チャップリンの諸作品の比較研究のうえで、かなめとなる作品である。

2006/10/30

2000-02-17 22:54:59 | 映示作品データ
 ナチスに協力した廉で戦後長らく非難されたレニ・リーフェンシュタールと比べるべき人物は多い。最近では、ナチス突撃隊員だった過去が明るみに出て窮地に陥ったノーベル賞文学者ギュンター・グラスがいるが、彼の場合は、その過去そのものよりも、過去を隠していたということが問題視されているようだ。
 レニのライバルだった女優マレーネ・ディートリヒは、ドイツからアメリカへ移りハリウッドデビューした。ディートリヒのファンだったヒトラーが再三帰国を要請するが帰国を拒んでアメリカの市民権を取ったため、マレーネの映画はドイツで上映禁止。マレーネは反ナチ運動にも参加した。レニとマレーネを比較するところから、芸術家の社会的意識や政治的コミットメントについて新たに見えてくるものも多いだろう。
 次は、やはりヨーロッパ(イギリス)からアメリカに渡り反ナチ映画を作ったチャールズ・チャップリンのメイキング映像を見ることにするが、その前に、チャップリン初のフルトーキー映画『独裁者』のサワリを流して観ながら、ドキュメンタリー映画の分類スペクトルを再整理してみたい。

2006/10/23

2000-02-17 02:39:27 | 映示作品データ
メタドキュメンタリーとしての『レニ』は、さまざまな見方をすることができる。
 ◎芸術家に対して政治的関心を要求することの妥当性について。
 ◎監督とレニとの対話において、二つの芸術観がぶつかり合う間接的芸術論として。
 ◎レニの、自己正当化の記録として。
 ◎『オリンピア』の手法解説にあったように、事実そのままではなく、練習風景などを挿入してリアリティを出す、フィクションとしてのドキュメンタリー手法について。結果至上主義の芸術観。
 ◎レニ・リーフェンシュタールという個人の記録として。

 次回は、第二次大戦勃発により、従軍カメラマンとして戦場に赴き、その後、戦争から離れて黙々と自分の映画を作るレニの姿から観ます。戦後、アフリカと海中へ関心を向けるところまで。