三浦俊彦@goo@anthropicworld

・・・・・・・・・
オトイアワセ:
ttmiurattアットマークgmail.com

2006/6/26

2000-02-11 00:43:51 | 映示作品データ
サン・ソレイユ (1982年、フランス)
Sans Soleil

監督:クリス・マルケル Chris Marker
ナレーション:アレクサンドラ・スチュワルト Alexandra Stewart

 文化論的ドキュメンタリー。
 ヒッチコックの映画『めまい』やムソルグスキーの歌曲、西アフリカのギニア・ビサウの独立運動など、芸術作品や歴史的事件を説明抜きで前提しつつ紀行文が進んでゆくので、しかも文学的なアフォリズムの畳み掛けによって続いてゆくので、通常の意味での「理解」は難しい。しかし、異文化を自国に手紙で伝える、という断片的な作業の雰囲気によって、異文化理解の本質を斜めから捉えた作品だと言える。
 「東京は伝説でいっぱいだ」というセリフがあったが、東京に住んでいるとあまり意識しない私たちも、言われてみればその通りだ、と納得できる。ハチ公から口裂け女にいたる新旧さまざまな「都市伝説」が紹介され、オーロラビジョンやエスカレーターなどの都市風景と重ねて、独特の情緒を醸し出す。
 この映画そのものの制作過程が語られる自己言及的ドキュメンタリーの性格も持ち、知人の日本人クリエーターの映像作品がしばしば引用されるメタ映像作品としての側面もチラチラ覗く。アフリカ、日本、アイスランド、アメリカ等々、とりとめもないといえばとりとめもない移動によって放浪のカメラマンの心情を本人映像抜きで伝えつつ、そのとりとめなさを、「記憶」をキーワードにした警句群で一括してまとめてしまったという印象だろうか。文学的解釈によって世界はどのようにでも見えてくる、といったメッセージが仄見える。
 なお、時代を表わすキャラクターがチラチラ登場していたが、個々の人物やアイテムを個別に調べてみるといい。たとえば、街宣車から演説をしていた右翼の頭領・赤尾敏のテレビ演説は、ここ↓のハプニング板などで見ることができます。
http://www.gazo-box.jp/bbstop.html

2006/6/19

2000-02-10 23:29:07 | 映示作品データ
5/22に短編2編を観たヤン・シュワンクマイエルJan Svankmajerから、さらに2編観ました。

■棺の家   Rakvic karna   (1966)

■ジャバウォッキー   Jabberwocky   (1971)

 この二作は、本来は説明の必要はないと思います。なんとなくのストーリーはあるらしいとはいえ、基本的に、視覚的な楽しさを眺めて<体感>すべき作品。
 「棺の家」は、人間の両手が指人形をはめるところから見せており、舞台装置のセッティングも相俟って、演劇的な枠の中で進行する。一種の劇中劇(メタフィクション)である。演技をしないモルモットと、演技をする指人形との合間に、現実と虚構のインターフェイスが広がる。その意味では、これも「ドキュメンタリー」の一種と言えるかもしれない。
 「ジャバウォッキー」は、迷路を抜けるまでの童心を描いたと解釈できるが、人形、リンゴ、ナイフなど、カテゴリーの異なるアイテムが次々に破壊されてゆくのは、成長に伴う童心の消滅を象徴しているのかどうか。シュワンクマイエルのアニメ手法全開の作品。これも、本気で活動しているネコが、ドキュメンタリー的とは言えないまでも、百%作り物の子ども部屋に、何か現実的な緊張感をもたらしている。

 次回から、映像と文学、映像と音楽、映像と美術(とくに絵画)の関係を考えるのに絶好の三作品を観ていきます。フランスの『サン・ソレイユ』(1982)、アメリカの『コヤニスカッツィ』(1983)、そしてロシアの作品(これはクイズにするのでまだタイトルは明かしません)。
 ★どれも長い映画なので、3回とも、12時45分から開始します。★

 なお、文学的映画、音楽的映画、美術的映画をそれぞれ観賞して、それによって映画と他の芸術ジャンルとの関係を考察する手掛かりとするわけですが、では、映画が映画自身に対していかなる関係を持つかを考える手掛かりとなる作品はあるだろうか?
 いわば、「映像的映画」とでも呼ぶべき映画。どんなものか考えてください。
 映像的映画の適例は、これも機会があったらご紹介することにしましょう。

2006/6/12

2000-02-09 03:47:54 | 映示作品データ

 ■日本のいちばん長い日 (1967) つづき

天皇を守る近衛師団が宮城を占拠して全陸軍を動かそうとしたとは確かに逆説的ではある。しかし、個々の近衛兵は、自分が徹底抗戦派のクーデターに参加しているという自覚はなかっただろう。つまり、直近の指揮官の命令で行進し移動し散会していたのであって、何かの演習だと思っていたかもしれない。

 皆さんの祖父の世代はアジア太平洋戦争に出征した経験者が居られることと思うが、近衛兵を務めて終戦を迎えた人もいるのではないだろうか。8月15日に何をしていたかを聞いてみるといい。実は宮城占拠の反乱軍に加わっていたのだが自分ではそんな自覚はなく、今にいたるまで宮城事件のことを知らないまま過ごしてきた、という人もきっといるに違いない。(昨年の三浦の卒論ゼミには、「終戦時に祖父が近衛兵だったが、宮城事件のことを尋ねたら知らないみたいだった」という学生がいました。)
 経験者よりも、後の世代のほうが良く知っていることはたくさんあるようです。

………………………………………………………………
 さて、レポートのお知らせです。
 ★レポートの提出要領については、↓「コメント」をクリックしてください。
  質問等があれば、コメントに投稿してください。

2006/6/5

2000-02-08 23:28:56 | 映示作品データ
 ■日本のいちばん長い日 (1967) つづき

 政府がポツダム宣言に回答したことを傍受した、海外のあちこちの日本軍部隊――フィリピン、インドネシア、ベトナム、マレー、シンガポール、ビルマ、南洋の島々、そして中国など広大な面積に散らばっている――から、「受諾するな」「戦いを継続させろ」という電報が大本営に殺到したという。45年8月の日本軍はまだそんな雰囲気だったということを押さえておかないと、この映画の登場人物たちの行動は理解できない。
 米内光政海軍大臣と阿南惟幾陸軍大臣とが、詔書の一部を「戦勢日に非にして」にするか「戦局必ずしも好転せず」にするかで対立し、そのために完成が遅れる様子は、「名誉ある終戦」を求める陸軍の執念が感じられて迫真的である。思う存分に戦って完敗したと感じている海軍と、本番は本土決戦だと思っている陸軍との認識のズレは、単なる名誉の問題ではなかったかもしれない。ついに米内が妥協し阿南の案に同意するくだりは、海軍内でも下からの突き上げが激しかったことを物語る。厚木航空基地(海軍)の小薗司令官は徹底抗戦を叫び、児玉基地(陸海混成)からは攻撃機が次々に飛び立ってゆく。
 ちなみに、最後の特攻機が突っ込んだのは、玉音放送の後である。大分基地の宇垣纏中将は玉音放送で終戦を知りながら、終戦を知らない若者たちを率いて特攻機11機で出撃し、彼らを道連れに自決した。そういう狂信的な指揮官が、日本中にいたのである。
 一般の日本国民にしても9割以上は、玉音放送のとき天皇が「よりいっそう戦争遂行に奮励努力するように」と激励するのだと思い込んでいたという。

 この映画は、史実に忠実に再現してあるが、多少のニュアンスの相違はあるらしい。児玉基地の野中司令官は、終戦をうすうす知っていて、攻撃中止命令を待ちながらも次々に部下を送り出さねばならない無念を噛みしめている様子が表情であらわされているが、実際には野中司令は、玉音放送を聴いて驚き、部下ともどもパニックに陥ったと言われています。そのような「暗示(ニュアンス)」のレベルでの創作(?)部分はあるにせよ、セリフや行動など事実に関してはすべて史実をなぞっています。

 次回は、今日終わったところ、東部軍の井田中佐が森近衛師団長を説得するシーンから観ます。

2006/5/29

2000-02-07 22:29:28 | 映示作品データ
 ■日本のいちばん長い日 (1967)

  監督: 岡本喜八
 原作は、大宅壮一編となっていることが多いが、本当の著者は半藤一利。『日本のいちばん長い日』(文藝春秋)である。

 1945年7月26日のポツダム宣言から、黙殺、原爆投下、ソ連参戦、回答、再回答、受諾、8月15日の玉音放送へといたる大日本帝国末期の日々を、史実に忠実に再現したドラマ。↓のレビューにもあるように、
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=4413
阿南陸軍大臣を演ずる三船敏郎をはじめ出演俳優たちの多くが、実際に戦場で戦った経験者である、ということが、この映画の迫力の源だろう。
 阿南陸軍大臣の割腹自殺、森近衛師団長の殺害、政府が終戦の詔勅の文案を議論しているときに次々に飛び立ってゆく特攻隊員たち、ピストルで脅されても屈しないNHK局員、ビラを撒いたすえ自決する将校たち、等々すべて実話である。今日観た部分でも、大西瀧治郎軍令部次長が血相変えて「日本人があと2千万人特攻で死ねば勝てる!」と外相に詰め寄るシーンがあったが、あのセリフは大西が常に口にしていた有名な言葉(正確には、日本国民の5分の1が死ねばアメリカは嫌気がさす」というような言葉だったというが)。大西は特攻戦法の導入を主張して神風特攻隊を編成し、「特攻の父」「特攻生みの親」などと呼ばれた。
 特攻隊で何千人もの青年を死に追いやった大西の真意は、「このような外道の戦法を始めれば、慈悲深い天皇陛下が必ずや『もうやめるように』と仰せになって、連合国との講和を命ずるに違いない」という期待だったという。大西も、1944年6月のマリアナ沖海戦以降は、日本に勝ちはなく、一刻も早く戦争をやめるべきだとわかっていたのである。そして、終戦のためには、天皇の命令しか方法はないこともわかっていた。
 しかし天皇は、特攻の開始を聞くと、終戦を命じるのではなく、「もっと頑張るように」と激励した。大西は引くに引けなくなって、次々に特攻隊を繰り出すしかなくなったのである。「慈悲深い天皇」の決断に頼るとは、なんとも甘えた話で、呆れるばかりだが、ポツダム宣言受諾のときも、政府も軍も自ら戦争をやめることができずに、天皇の聖断に頼ったのである。
 次回は、今日終わったところ、御前会議で天皇が聖断をくだすシーンから観ます。