三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
ttmiurattアットマークgmail.com

2006/10/16

2000-02-16 01:47:10 | 映示作品データ
■レニ Die Macht der Bilder: Leni Riefenstahl
1993年 ドイツ
監督 Ray Muller レイ・ミューラー

ダンサー~女優~映画監督の道を歩み、ナチの宣伝映画製作者として戦後長く忌み嫌われたレニ・リーフェンシュタール(1902-2003)の芸術的生涯を、本人へのインタビューと作品からの引用によって構成したメタ・ドキュメンタリー。「撮る人を撮った」ことによる独特の構造に注目していただきたい。

 ナチス協力の罪に問われて多くの裁判を受けたが、すべて勝訴。芸術と政治、芸術と倫理の関係を問う上でも重要な人物である。

 次週、次次週は『レニ』の続きを映示し、レニの諸作品の一部
 ナチス党大会のプロパガンダ映画『意志の勝利』(1935)ベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』(『民族の祭典』『美の祭典』)(1938)90歳すぎても海に潜って撮影し、100歳の時に完成させた海中記録映画『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』(2002)のどれかをも、いずれ教室で上映します。

2006/10/2

2000-02-15 05:26:53 | 映示作品データ
10/2は、『トリック』の冒頭部分を観ました。
http://www.tv-asahi.co.jp/trick1/

「他の手品を用意してました」があの手品の種明かしまたは説明になっているか、という問いに対し答えを書いてもらいましたが、

 説明になっている …… 8人
 説明になっていない …… 5人
 その他(どっちつかず、答えナシなど) …… 5人

正解は、
「説明になっている」です。
「説明になっていない」と答えた人は、オカルトを信じやすい性格かもしれないので、要注意。

 「他の手品を用意してました」は、この手品がうまくいったことの完全な説明になっています。
 なぜか? きちんと理由を述べようとすると案外むずかしい。(もちろん、正しい理由を書いている人もいました)

  この問題については、いずれ教室で解説する時間を設けようと思っています。

2006/10/2

2000-02-14 02:54:12 | 映示作品データ
【ドキュメンタリー(映像)作品】の分類をしておきます。
まずは大まかに。小分類の詳細は適宜説明します。

 ■歴史・時事的ドキュメンタリー
●イベント、人物の記録。『東京裁判』『民族の祭典』『ケネディ』『Victory at Sea』
●オムニバス的映像集。『映像の世紀』『バンド・フロム』
●記録フィルム+当事者インタビュー。『ヒストリー・チャンネル』
●記録フィルムと再現映像でのモザイク・ドキュメンタリー。『ヒトラーと4人の女たち』
●猟奇系ドキュメンタリー。『ジャンク』『デスファイル』『グレートハンティング』
●プロパガンダ映画。『汝の敵、日本』『日本の悲劇』
●アート系プロパガンダ。『意志の勝利』
●メタ・ドキュメンタリー。『レニ』『シューティング・ウォー』
●メイキング映像。『放浪者と独裁者』

 ■双方向的ドキュメンタリー
●インタビュー集。『リッスン』『マトリックスの哲学』
●リアルタイムで撮影陣が被写体を挑発するタイプの密着取材型。『ゆきゆきて、神軍』
●盗撮によるゲリラ・ドキュメンタリー。
●フェイク盗撮。

 ■芸術的ドキュメンタリー
●アート・ドキュメンタリー。ライブ、専用の舞台など。『ファーズ・ザ・フィルム』
●歴史的ドキュメンタリーフィクション。『エルミタージュ幻想』「コストニツェ」
●プロセス・アート。『カッツィ』三部作「海辺にて」「Making a Splash」
●インスタレーション、環境ビデオ。『廃墟』『リキッド・クリスタル』

 ■ノンフィクション型フィクション
●再現系。『日本のいちばん長い日』『ヒトラー最後の12日間』『モスクワ大攻防戦』
●コンセプチュアル・ノン・フィクション。さまざまな美的否定。『天使』『死の王』
●現実の表裏を伝えるフィクションドラマ。『トリック』『フリークス』
●間テクスト型。原作小説・映画を社会的事実として対象化。『アッシャー家の崩壊』
●パロディ映画。引用型。『最終絶叫計画』

 ■フェイク・ドキュメンタリー
●モンド・ドキュメンタリー。『世界残酷物語』『世界女族物語』『サン・ソレイユ』
●間メディア型(インターネット&映画)。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『スナッフ』
●ルポルタージュ型。『エイリアン・インタビュー』『放送禁止』
●フェイク投稿設定型。『呪いのビデオ』
●結果としてニュース報道と誤解されたフィクションドラマ。『宇宙戦争』

 ■自然ドキュメンタリー
●ドキュメンタリーアート。『ミクロコスモス』『アトランティス』『原色の海』
●解説型。『ナショナル・ジオグラフィック』『NHKスペシャル』
●コンセプチュアルドキュメンタリー。『Powers of Ten』
●SFドキュメンタリー。『ウォーキングwithダイナソー』『エイリアン・プラネット』
●シミュレーション。『ワールド・アニマル・カップ』
●リアルシミュレーション。『世界最強虫王決定戦』


↑ ここから2006年後期の「言語と社会」&「文学講義」  
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2006/7/10

2000-02-13 23:51:35 | 映示作品データ
■エルミタージュ幻想 (2002, ロシア)
監督:アレクサンドル・ソクーロフ Aleksandr Sokurov

 エルミタージュ美術館については、ネット上でどこでも、たとえば→ここ←などを参照してください。
 
 世界遺産に指定されているエルミタージュ美術館の紹介ビデオとして観ることもできる映画だが、もちろんこれ自体がアートになろうとしており、前衛ドラマとして作られている。一見(一聴)わけがわからないところも多いが、歴史上の人物がたくさん登場し、王宮だったこの場所で過去に催されただろう外交儀式や舞踏会などの光景が、21世紀の一般市民の来館者の風景などと同レベルに映されてゆく。
 そう、この映画の驚くべき手法とは、「ワンテイクムービー」である。
 つまり、始めから終わりまで途切れなく、ワンカットで撮ってしまったのだ。
 美術館そのものをセットにして撮るということで、時間的制限もあったらしく、その制約を逆に実験的手法の手掛かりとしてしまったところがすごい。
 アナログフィルムでは90分以上を途切れなく映すことはできない。デジタルの時代だからこそできた離れ業だ。
 美術作品が次々に紹介されるがゆえにこの映画は「美術的」だというだけでなく、このワンカットの手法によって、自らが「絵画的」になった。なぜなら、絵画は、ワンシーンだけを固定的に描くところに神髄がある芸術ジャンルだからである。この映画も、動きはあるにせよ全体を一つの同一シーンとして捉えて、絵画的な枠の中にこの建物のすべての歴史を封じ込めたと言える。

 「正解」を出した人は3人しかいなかった。思ったより少ない。残念。見て取れなかっただろうか? ちらちらとスクリーンから目を離しながら観賞していた人は、ワンカットという手法には気づかなかったかもしれない。じっと見つめ続けていなければならない映画だ。
 「一人の人間の視点から撮られていた」という答えはわりと多くの人が書いていた。声だけで出演していた監督の亡霊(?)の視点が、そのまま途切れなく、まばたきもなしで(亡霊だから?)続いていたという作りだろうか。
 なお、ワンカットという手法は、1948年にアルフレッド・ヒッチコックが『ロープ』という作品で試みている。もちろん、当時は撮影フィルムは1巻最長10分しかなかったので、フィルムの終わりで人物の背中など暗いところを映し、次のフィルムをかぶせてつなぎ目を目立たなくするなどして、見かけ上ワンカットに仕立てたらしい。本当の90分一発撮りのワンカットは『エルミタージュ幻想』が初めてである。
 正直のところ、とてつもなく退屈な映画に落ち込むスレスレのところにある作品だが、やはりワンカットの臨場感は計り知れないものがあったと言えよう。

2006/7/3

2000-02-12 02:15:22 | 映示作品データ

■コヤニスカッツィ Koyaanisqatsi  1983、アメリカ

監督 ゴッドフリー・レジオ Godfrey Reggio
音楽 フィリップ・グラス Philip Glass
製作 ゴッドフリー・レジオ
   フランシス・フォード・コッポラ Francis Ford Coppola

 ポアカッツィPOWAQQATSI(1988)、ナコイカッツィNAQOYQATSI(2002)と続く三部作の第一部。(監督、音楽は三作とも同じ)
 アメリカ国内の風景を、自然→自然開発→都市→自然の順で映し出し、最後にはロケット打ち上げの失敗(爆発)の様子と原住民の壁画を重ねる。
 いろいろな理屈をつけて観ることのできる映像だが、まず第一に脳は停止させてひたすら「体感」するべき映画だろう。反復フレーズをしつこく続けるフィリップ・グラスの音楽は、ミニマルミュージック特有の陶酔感をもたらす。ミニマルミュージックというジャンルは、西洋クラシック音楽の延長上にありながらも、アフリカの太鼓、インドの瞑想音楽、バリやジャワのガムランなど、非西洋音楽の影響下に1960年代に始まった。フィリップ・グラスも、インドのシタール奏者ラヴィ・シャンカールとのコラボレーションを行なっている。非西洋の音楽を取り入れているから西洋文明の自己反省を自然に促す芸術にぴったりなのだ、とするのは安易すぎる発想だろう。が、メロディ、ストーリー、デザイン(構図)など論理的な要素を中心として発展してきた西洋芸術に対して、ハーモニーやリズム、スタイルやムード、色彩といった非論理的部分を強調した『コヤニスカッツィ』のような映像体験は、しょせん西洋文化の枠内で発展してきた映画というジャンルに対し、根本的な「映像体験とは何ぞや?」的思索を迫るのではないだろうか。

 オートメーションでの半導体の生産、自動車の生産、ソーセージの生産、エスカレーター上の人間の流れ、高速道路上のクルマの流れ、等々がすべて同じに見えてくる映像効果は、「アメリカ」というテーマ(?)に何か深く関わっているのだろうか。それとも、時間を圧縮したり引き延ばしたりしないと理解できない視点(宇宙的視点? ロケットの映像が効いている……)からすれば、この世のすべては、自然も人工も国家も何もかも区別のない同根の現象に他ならない、とアピールしているのか。

 今日出してもらった感想では、「面白い」「今までいちばんいい」というコメントが意外と多かったが、「何と言われようとつまらない」「難しくて退屈」という人も少なからずいた。モードを切り替えて、「観かた」を根本から変えられるかどうかが、この映画を楽しめるかどうかの分かれ道だろう。意味に導かれるのではなく、象徴表現に感覚を任せることができるかどうか。その観かたは、セリフのない映画全般について言えることだが。

 なお、『コヤニスカッツィ』の高速度風景など、いくつかの場面は、他の映画にもしばしば引用されています。先日、レスリー・チャンの命日に六本木に追悼上映を観に行ったら(しかしなんで女ばかりなんだろう。男は俺一人だったんじゃないか?)『ブエノスアイレス』という映画の中に、エスカレーター場面等そのまんまが使われていました。
 映画史の一つのスタンダードたるドキュメンタリーアートとして認められている証拠なのでしょう。