【連載】藤原雄介のちょっと寄り道②
赤い魚、黒い魚
イスラ・ムヘーレス(メキシコ)
▲若菜夫人とメキシコのホテルで。二人とも新婚気分が抜けきらない?
日墨交換留学制度で1978年から1979年にかけて約1年間、メキシコのプエブラ州立大学に留学した。この留学制度でメキシコに行くことを夢見ていたのだ。入社3年目である。その春、私は結婚したばかりだった。何とか社内選考を通ったものの、社内規定で妻帯者は対象外だと人事部から告げられ、目の前が真っ暗に。
しかし、当時の上司が、「他に適切な該当者なし」と身に余る言葉で人事部を強硬に説得してくれた結果、単身赴任ならと特別に許可された。閉ざされかけていたメキシコへの扉が開いたのである。いろいろと失敗を重ね、建前で話すことを覚え、そろそろ社会人らしさが身につき始めた時期だった。
が、メキシコに到着して数日も経つと、青い空、乾燥した空気、歌うように話す柔らかでどこかのんきなメキシコ訛りのスペイン語、マリアッチの調べ、街角でインディオのおばさんが焼くトルティージャの匂い。そんなものが、私に芽生えかけていた社会人らしさなるものを吹き飛ばしてしまう。言いようのない開放感に包まれたのだ。
余談だが、渡墨して数か月後、会社に内緒で妻を呼び寄せた。後日、つまらぬことで、これが会社にバレ、「けしからん! 即強制送還だ!」などと大騒ぎに。始末書を書いたかどうか覚えていないが、上司をはじめ、様々な先輩たちの人事部への働きかけてくれた。そのお蔭で、なんとか最後まで貴重な留学生活を全うすることができたのだが、人事評価には多分大きな罰点がついたはずだ。
ところで、前回(「真夜中のチンチェ」)で書いたように、学生時代にスペインに留学し、マドリードの旧市街中心部に住んでいた。私の話すスペイン語は、日本で言えば、東京の下町言葉のようなもの。メキシコ人にとっては、強烈な違和感があったらしい。
私のことを「ガチュピン(Gachupín)のようなスペイン語を話す変なハポネス(日本人)」として、メキシコ人たちは面白がり、ネタにしては盛り上がっていたらしい。ガチャピンではなく、ガチュピンですぞ。元々メキシコを征服したスペイン人に対する蔑称だった。が、現在ではメキシコに住むスペイン生まれの人、といった悪意をかなりそぎ落としたニュアンスで使われている。
1519年、エルナン・コルテスが率いるスペイン軍がメキシコに上陸、侵略を開始した。わずか2年でアステカ帝国の首都ティノチティトラン(現在のメキシコ・シティー)を陥落させ、300年に及ぶスペインの植民地支配が始まる。メキシコ人にとって、この植民地時代の重みは計り知れないほど大きいようだ。
それは言葉にも表れている。メキシコには、人を罵る言葉がごまんとあるが、「強姦」に関連する単語が異常に多い。現在のメキシコがスペイン人に強姦されてできた国である、というメキシコ人が今も背負う宿痾にも似た社会の記憶故であろう。
メキシコの罵詈雑言は、何冊もの解説書が出ているほどバラエティー豊かで、ここで紹介するには無理がある。例え、十分なページが与えられたとしても、上品さで知られる白井健康元気村のブログには、とても書けないような露骨で強烈なものばかりだ。
おっと、前置きが長くなってしまった。赤い魚と黒い魚のお話である。
10日ほどユカタン半島を旅していた。チチェン・イッツァやトゥルームなどのマヤ文明の遺跡、ユカタン半島に点在する3500ほどのセノーテと呼ばれる神秘的な泉を訪ねたりして、古代文明に思いを馳せ、知的刺激に満ちた時間を過ごしていた。
マヤ人たちの信仰の対象でもあったセノーテとは、石灰岩の大地が陥没した穴に地下水が貯まってできた巨大な井戸だ。世界最大と言われる水中鍾乳洞への入り口であり、驚くほど透明な水に満たされている。
全く光の射さない洞窟内には、目のない魚やエビ等異形の生物が。そして生贄のものと思われる人骨も多数発見されている。セノーテは、霊的世界への入り口であったらしい。
▲黒い魚と赤い魚を食べたカンティーナの前で
また脱線してしまった。
ユカタン半島の先端の西側には、世界的な観光地カンクン(Cancún)やコスメル島(Cozumel)がある。しかし、私たち夫婦は、コスメルの北にある不思議な名前を持つ小さな島、イスラ・ムヘーレス(Isla Mujeres=女性の島)を目指した。
この島の裏通り、地元の人たちのたまり場のようなカンティーナ(cantina=酒場兼食堂)に入った。テキーラでほろ酔い機嫌のソンブレロの男たちが、ひげ面とおかっぱ頭の東洋人カップル(私と妻)に好奇の目を向ける。
「オラ、セニョール、何にする?」
とやる気のなさそうな貧弱なクチ髭の若いウエイターが、面倒臭そうに近づいてきて、訊く。
「何がうまい?」
「そりゃ、ぺスカド・フリート(pescado frito=魚のフライ)だよ」
「OK、じゃ、それを2つ。飲み物は、コロナ(ビールの銘柄)とライムジュース」
数日間、ウミガメやイグアナのスープ、サボテンステーキなどちょっと変わったものを食べ続けていたので、フツーのものが食べたかった。しかし、メキシコ人が毎日飽きもせず食べているトルティージャ、緑色のソース (salsa verde) をダボダボかけた目玉焼き(正確には、オリーブオイルで揚げた卵)、フリホーレス(赤い色のインゲン豆を塩味で煮たもの)なども、見たくはない。
店の中を見回すと、水色の壁に、へたくそな絵が書き殴ってある。ウミガメ、ウミヘビ、鯛(のような魚)、バショウカジキ、タコ、イカ、イソギンチャク、大きな貝等々。場末のシーフード・レストランには、たいていお約束のように、同じような絵が描かれている。
料理が運ばれてきた。大きな皿に、丸ごと揚げた30㎝ほどの大きな魚。乱切りのレタス、トマト、キュウリ、そして半分に切ったライム1個分が添えられている。テーブルの真ん中には、赤と白のチェックの布に包まれたトルティージャ。きつね色の衣に包まれた魚からは、香ばしい匂いと輝く湯気が立ち昇っている。素晴らしい!思わず笑みがこぼれ、無言で妻と顔を見合わせる。
「いただきます!」
ライムを絞り、すかさず魚にナイフを入れ、フォークで口に運ぶ。サクッ、思いの外、衣は軽い。淡白な白身は柔らかいのに、適度な弾力があり、絶妙な噛み心地である。塩と油とライムのシンプルな味付けが絶妙である。うまい! また笑顔になる。そして、こういう場面では、殆どの日本人が同じ言葉を口にする。我々も例外ではない。
「醤油が欲しい!」
「ほんと、うまいな、素晴らしい」
件のウエイターと目が合ったので、褒めちぎる。
「言ったとおりだろ」
と、ウエイターは嬉しそうにと大げさに肩をすぼめ、手を拡げた。
「ところで、私が食った魚は黒、彼女(妻)のは赤だった。どちらもうまかったが、それぞれなんていう名前?」
このハポネスはなんという愚かな質問をするのかといった表情で、彼は目を見開いて天井を見上げた。
「セニョール、これは、赤い魚。あれは、黒い魚。分かった?」
明快で、素晴らしい回答である。出世魚などと言って、一つの魚の成長過程に合わせて名前を変えるような魚との付き合いが深い国からやってきた私である。この単純で、おおらかな回答に感動し、ライムを絞りこんだコロナを喉に流し込んだ。
私たちは、他愛ない話をしながら赤い魚と黒い魚をきれいに平らげた。残ったのは骨だけ。壁にもたれてこちらを見ていたしょぼい髭のウエイターは言った。
「あんたたち、猫の敵だな」
日本の猫またぎと同じ発想がメキシコにあったことにちょっと感動し、何故か少し嬉しくなった。
「コロナ、もう1本。それにクエルボ(テキーラの銘柄)をストレートで。ライムをたっぷり添えてくれ。ところで、今度来るときは、何色の魚がうまいと思う?」
からかうように尋ねると、ウエイターは小さく腕を拡げ、肩を引きながら手の平を上に向ける。メキシコ人が困った時によくやる仕草だ。そして、いとも軽やかに言った。
「キエン・サベ!(¡Quién sabe!=そんなの誰にも分からないよ!)」
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、NHK俳句通信講座講師を務める夫人と白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。