【連載】呑んで喰って、また呑んで⑫
安ワインで極上の家庭料理を釣った
●アメリカ・ワシントン特別区
「ほんと、この食堂のメシは腹立つほど不味いなあ」
隣でピザを食べているクリスに、私がぼやく。ぼろぼろのスパゲティを飲み込むのはつらい。ピザも最低の味だった。ここはメリーランド州にある国立公文書館の食堂である。
「あ、そう。そんなに不味いかな」
とクリスが美味そうにピザを口に運ぶ。一体、どういう味覚なんだ。
ワシントンからは地下鉄とバスを乗り継いで20分ほどのところに国立公文書館がある。公文書館通いを始めて数日経っていた。日本で客員教授をしている英国人のクリスは、20年来の友人だ。国立公文書館で調べものがあり、「ひとりで行くのは退屈だから、一緒に行かないか」というクリスの誘いに乗っかったというわけである。
公文書館でクリスと私の共通の顔見知りに出会った。バンコク、モスクワで特派員を務め、ワシントン勤務になったNさんだ。調べものがあって、ここ数日は連日通っているという。久しぶりに会ったので、その夜はワシントン市内の外国人特派員クラブのバーで呑むことに。禁煙の多いワシントンの中で、このバーだけは紫煙がもうもうと立ち込めている。
ちなみに、ジャーナリストの特徴の一つが、健康に無頓着なことだ。どの国から来たのか知らないが、金髪の美人も堂々と煙草をくゆらし、黒人男性と論争しながら、ウォトカらしき液体をロックであおっている。カッコいい! ええい、今日だけは禁煙の誓いを破ろう。スコッチのオン・ザ・ロックを何杯もお代わりしてウインストンをすぱすぱ吸った。この夜、何を食べたのか覚えていない。翌朝はひどい二日酔いだった。
ところで、公文書館の食堂もひどいが、ワシントン市内での夕食もパッとしない。不満顔の私に、クリスが朗報を伝えた。ミシェルからタ食に招待されているというのだ。彼女は中国系アメリカ人。クリスとはエール大学の同窓生で、FBI(連邦捜査局)に勤務している。その数年前に私の家にも遊びに来たことがあった。
「手料理を作ってくれるって」とクリスが「もちろん、君の好きな中華料理だよ」
「えー、そりゃあ、楽しみだ」
その夜、クリスと私は、1本5ドルのスぺイン産ワインを3本ぶら下げ、ワシントンの住宅街にあるミシェルの家を訪問した。ギリシャ人の旦那と幼い娘と息子も賑やかに出迎えた。
「はい、おみやげ」
「わ―、うれしい―」
ミシエルが大袈裟に感激した。 そんなに喜んでいるので、一番安いワインだとは口が腐っても言えない。
「いま料理の真っ最中なの。そのワインでも飲んでいてよ」
そうミシェルが言って、台所に引っ込んだ。
世界銀行で働いているという旦那は、おとなしい男だった。ヘビースモーカーらしく、私たちとワインを呑む合間、しきりに玄関先のベンチに座って煙草を美味そうにふかしていた。持参したワインが2本とも空になった頃、湯気を立てた皿が次々とテーブルに運ばれてきた。
オイスターソースと生姜、紹興酒でじっくりと煮たチキンのもも肉。いい匂いだ。目を細めて口に含む。そして愛おしそうに噛む。肉汁がジワもと広がった。縁も鮮やかな青菜炒めは、ニンニクがたっぶり利いていて、じつに香ばしい。
「美味い!」と私が思わず口に出した。「これ、どこの料理?」
「母に教えてもらった料理だけど、たぶん広東でしょ」
「どこでもいいけど、最高の味付けだ」
その腕前を絶賛する私に、ミシェルが言った。
「あら、安物のワイン、もう飲んじゃったの。本物のワインを用意してあるわ。すっごく美味しいんだから」
いたずらがばれた少年のように、クリスと私はうつむいた。