【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」(61)
テレビの中の芸能人や文化人がニュースなどで出ている場面では、その人の年齢が出ることが多い。訃報があれば、必ず名前と年齢が表記され、その人の寿命かと思ったり、また若さに驚かされたりもする。番組によっては町行く人へのインタビューがあり、その人の年齢が字幕となって出る。若い人は抵抗もなく自分の齢を答えているのだろう。
「おいくつですか?」「私、幾つに見える?」と、逆に質問するのは年配の人に多い。そんな時はとりあえず5歳か10歳、サバを読んで答えているようだ。また他の場面で、聞かれた人が本当の年齢を答えれば、「えー、そんなお年には見えませんよ」と、お決まり問答となる。どちらにしても、実年齢より若く見られたいという、誰にもある心の本音が見える。
このように、年齢を気にするのは、日本人の特徴だろうか。何かの時に聞いたことであるが、海外ではその人が「どのように生きて来たのか、どう頑張ってきたのか、何を思っているのか、何を見たのか」などを聞かれるが、年齢はあまり問われない、という。
テレビを見ながら、さも偉そうなコメントを言っている人がいると、「じじぃめが」と夫。早速「あなたも十分にじじぃだからね」と、言い返す嫌味な私である。自分のことは棚に上げ、いつまでたっても自分が若かった頃のイメージを思っているのだろう。
テレビ画像は残酷に思えることがある。芸能人や女優さん、品よく素敵に老いている人もいる。しかし若かりし頃は恰好良かったし、美人で可愛かったのに、齢を重ねてからの肥満体形や、逆に痩せて皺が目立つと、あまりの老け具合に驚愕することがある。
一般人の私なんか、その脅威にさらされることはない。それでも、「元気で、若くいたい」という思いが優先される。老いてゆく体や顔に対して、少しでも抵抗したいのだ。その証拠の一つが、ダイエットに関してのテレビ番組が、数多く放映されていること。体の鍛え方、特殊な食事の摂りかたなどを、太めのタレントを起用して微に入り細に入りである。
私もダイエットしたいという願望が強い。でも、結局、実践は出来ずにいる。一念発起したつもりも、三日坊主ならぬ一日坊主で終わってしまうのだ。ここで言い訳にもなるが、6、7年前に私も少しスリムになったことがあった。でも、特別なダイエットを試したわけではない。何かと気を遣う事態が続けて起きていたからだろう。それでも、私は軽くなった体には満足したものである。が、息子がある日、夫に向かって、こう言った。
「お母さん、最近ばばぁになったね!」
それを聞いた私は、大ショックだった。
若々しく見えるようになるという化粧品のテレビCMは、後を絶たない。携帯でネット記事を見ていると、文面の途中には、すぐに痩せるとか、女性の悩みの顔の皺・シミに効くという商品の宣伝が多い。齢を重ねれば、額、目じり、目の下、ほうれい線、口元など、次々と皺の数が増えてゆく。
その昔、まだ私が女学生の頃、姉の家(パン屋)に出入りしていた牛乳屋の小父さんに、言われたことがある。
「しかめっ面をしてはいけないよ!」
将来、眉間に皺ができて、それが一番恰好悪いからだ、と。今でも、その言葉がどこか心の隅に染みついているのか、腹が立って怒りたいときに、小父さんの言葉を思い出す。
ところで、自分の歩く姿は見ることが出来ない。が、誰かがいつの間にか撮った写真を見せられて、ギョっとすることがある。それは「背中丸くしてる」と、思うことだ。その昔、義母が我が家に遊びに来ていた時に、ビデオでの自分の歩く姿を見て、
「真っすぐにちゃんと歩いとるはずやのに、えらい背中が曲がっとる」
と、嘆かれたことがある。
この時はなぜか申し訳ない気持ちになったのだが……自身がその頃の義母と近い年齢になって、同級生、同じ趣味の人たち、パークゴルフの仲間、体操教室の人たち、町行く人々、日々誰かしらとの出会いがある中、その歩き方、物腰、姿勢などの動向に目が行くようになった。反面教師にしなければと思うこともある。
もう少し若い頃は、様々な年齢の人が行き来する駅などで、歩き方はかなり速い方だと自負していたが、最近は追い越されて行くことが多くなった。姿勢や歩き方などの衰えを嘆く私に、夫はこう言い放つ。
「自分の年を考えろ! 当たり前だよ!」
でも、たとえ悪あがきと思われようが、やはり見た目も大事だ。そう思っている私だが、夫は別の心配をしてくれる。私がどこかに出かける前、口癖のように言う。
「走るなよ! 気をつけてな!」