変温動物のほんとうはあったかはーと

冷たくないよ、ちょっと心が暖かくなる話を書きます。

心(しん)のある人

2007-01-31 16:07:10 | Weblog
話をしていて、気持ちが良かった。落ち着いた気分だった。

その人とは、久しぶりに会った。

距離的に離れているので、あまり会えない。それにここ数ヶ月は、なぜか会う機会を失っていた。もっと近くに住んでいたら、毎日でもあっても飽きないことだろう。

彼女には、心がある。

好きなことをしっかりとぶれることなく持っている。

私が自分の中心を見失い、ぶれそうになったら、彼女を思い浮かべたいと感じた。


素直じゃない

2007-01-29 03:11:53 | Weblog
週末、映画を見た。

「硫黄島からの手紙」
アメリカ人のクリント・イーストウッドが描く日本人の戦争とはどんなものなのかみてみたかった。

側にいる夫は、映画が終わってもしばらく席をたたなかった。その夫に私は、「なんなんドンパチばかりが、強烈で」と感想を言ってしまった。それから、ずっと帰りの車内で、夫の感想をきかされた。少し高揚しているその夫の様子に私は、圧倒されてしまった。「ええ?そうかなあ?」というと「わからんのか!」と解説し始める。「うーん、わからん!」「そう?」と私は繰り返すばかりだった。とうとう、夫は、「愛の流刑地でも見たほうが、分かりやすかったんじゃないか。素直じゃない」と言った。「うーん、そうかなあ」

もう、果てしなくその話は続きそうだった。実際のところ、翌日までつづいた。

素直じゃないといわれたら、そのことに気がつかないでもない。訴える内容を素直に受け止めたらいいのだ。でも、戦闘の描写が強烈で、私は何回も耳をおおってしまった。それが、戦争というものだろう。安っぽく戦争反対などといえないとも思った。

映画館に足を運ぶのは、本当に久しぶりだった。
父が亡くなって、実家に帰ることが多くなり、週末にその余裕がなくなっていたことにも気がついた。

そうそう、映画を見る気になったのは、もうひとつきっかけがある。
実家の母が、「キムタクの映画をみたいけど、どうしたらいい」と言い出したのだ。私は、びっくりした。「キムタク、かわいい」という。その後、母は、友人を誘って映画を見たという。私は、その行動力に驚いた。父が亡くなって、ずうっと元気がなかったが、楽しみを見つけ、積極的に行動するようになってくれて、そのことをとても嬉しく思う。

今回見た映画は、画面からくるものが強烈で素直に取れなかったが、母のそうした行動力は、素直に心から喜びたい。










自分は何をしたくて、何を求めているのか。

2007-01-25 15:50:41 | Weblog
自分のしたいことを我慢して、したいことをじっくりみつめることもなく、現実の生活に追われてしまう。そこに少しづつ不満がたまっていく。自分で気がつかずに澱のようにたまっていくのだ。

そんなことを続けていたら、どうなるのだろうか?

きっと、わたしって何だったの?今まで何をしていたの?ということになる。

そのことを伝えようとしても、今日ランチをともにした相手に言っても「え?言ってる事がわからん?」となる。

いい所取りの生活をしてたら、自分を見失ってしまう。

こうして、文章にしても、私の言いたいことは、書ききれない。ましてや、口下手の私は、何でもストレートに言ってしまう私は、「言いたいこと言ってごめんね」となってしまう。

ああ、じれったい。そんな自分がじれったい。

視点

2007-01-24 04:45:08 | Weblog
視点ということに気がついた。

物を見る視点、感じる視点、そのことに改めて気がついた。

例えば、「千の風になって」についてである。

この歌は、亡くなった人が今生きている人への愛、今生きている人が亡くなった人に思う愛。そして、この世で生きることだけが生きていくことではないということ。
そんなことが、この歌にはこめられている。

でも、私は、そのことばかりではない。

伝えるという思いだ。

この歌を歌っているテノール歌手は、イタリアで4年間、勉強をしたそうだ。イタリアで、歌ったとき、「イタリア人が私の歌で感動したことが、忘れられない」と言った。お腹の底から出てくるその声は、実声となって国境を越えて伝わるのだ。

自分の伝えたい思いは、心の底からわいてこないと伝わらない。
小手先の技術を使って、伝えようとしても、それは、そこまでである。

私は、このところ、文章の書けない自分に悩んでいた。
書いても「まあいいかこのくらいで」とまでしか書けないのである。嘘はないけど、そこそこしか書けないのだ。

ようやっと、気がついた。
視点が違うのである。

自分の伝えたい思いはあるのに、視点が定まっていなかったのだ。
そのことに、ようやく気がついた。

視点の定まっていない自分に気がつかず、小手先の技術に頼ってしまっている。

そのことに、気がついた私は、もっともっと自分の感性を磨き、研ぎ澄まして、文章にしていきたいと思う。

お腹の底から声をだす

2007-01-23 15:52:40 | Weblog
「千の風になって」

CDを買った。以来、何度もかけては、何度もあわせて歌ってしまっている。
「私って、歌う声は意外に声が低かったんだ」等と気がついている。

お腹の底から出す声は、自分の忘れていた本音を呼び覚ましてくれてる気がする。

人に何かを伝えたい時は、自分の中から沸いてくるものがなければ、伝わってはこない。

このテノールの響きは、伝えようとするものがきちんと伝わってくる。

そんなことをこの歌声に教わった気がしている。

「ポイントカードはお持ちですか?」

2007-01-19 14:00:08 | Weblog
昨日の文章に、書ききれなかった思いがある。
今日は、もう少し書いてみる。

行きつけのスーパーのレジで、「ポイントカードはお持ちですか?」「いいえ」
ここまでは、いつものことだ。

ところが、この日は違った。
少し年配の女性だった。声がよく通って嫌味のないいい声のひとだった。
「いいえ」と手を振ったその瞬間、「いつでも言ってください。すぐお作りしますので」
私は、ああそうか、作ればいいのだとそう思った。
こだわって、ポイントカードなんか作るものか、と思っていたその頑なな心に、ささやかなメッセージが届いたと思った。

日常生活の中では、こうした小さなメッセージがたくさん届いてくる。
それに気づくことなく、聞き流してしまうことは多いものだ。

私は、そんなメッセージをもっともっと細かく受け取りたいと思っている。

千の風になって

2007-01-18 15:07:05 | Weblog
新しい年がきた。
新しい年がきたというのに、悶々とした日々を送っていたことだろう。

と言っても、引きこもっていた訳ではない。
きちんと家事もこなし、買い物も行き、水泳にも通っている。
以前と少し違ったのは、買い物のコースと水泳のコースも変えたことだ。
年末にストレスを感じた私は、生活のパターンを変えなければならないと思ったのだ。

そうすることで、少しづつではあるが、今までにない自分を感じ始めた。
些細な変化を生活の中で試みたのだ。

いつも行くスーパーで、レジで必ず言われる「ポイントカードはお持ちですか」
「いいえ」と手を振る。何度繰り返したことか。その行為をやめようと思った。いいえと手を振る行為を止めようと思った。ポイントカードを作ったのだ。そうしたら、何と楽なことか。

すると、自分の奥底にあるひねくれた根性に気がついたのだ。「ポイントなんか集めてもたいした金額にならないのに、そんな商業主義にのるものか」という素直でない自分、ひねくれた自分に気がついたのだ。

水泳もそうだ。大勢の人と泳ぎたくないのだ。なのにいつのまにか巻き込まれてしまっていた。人とあわせ、必死で泳いでいたのだ。それをやめようと思った。競争して必死になる自分をやめようと思った。コースを変えたのだ。すると、なんと水を楽しめることだろう。あまり、人のいない時間帯に静かに泳ぐことが出来るのだ。忘れていた泳ぐことの楽しさに気がついた。

私は、人にあわせる”いいひと仮面”の自分に気がついたのだ。

そうした奥底の自分に気がついたのは、
「千の風になって」というテノール歌手の歌声を聴いて、その歌声にあわせて歌詞を見ながら歌っていた時に気がついた。涙があふれた。ほんとうの自分に気がつきなさい、といってくれてるように聞こえてきた。この歌詞は、もう2年前から知っていた、でも、ほんとうの良さを理解してなかった。やっとその奥深さを感じることが出来た。

しばらく、この歌声をきいていたい。