変温動物のほんとうはあったかはーと

冷たくないよ、ちょっと心が暖かくなる話を書きます。

ゾウの時間、ネズミの時間、、①

2010-06-19 20:43:44 | Weblog
「死を忘れた日本人」中川恵一

ちょっと、ひいてしまいそうなタイトルだけど、私は、この本を読んでいる。

この本の著者は、がんの専門医として、緩和ケア等にも取り組んで、多くの著作もある。
毎日新聞で、「死生をかんがえる」というタイトルで毎週水曜日に掲載され、がんという病気を丁寧に伝えている。

ちょうど、1年前から、そのシリーズが始まった。
私は、母のがんが見つかった際に、この記事に、がんという病気の治療にあたってとても支えられた。
そのシリーズが上梓されたのだ。

日本人の死のトップは、がんになった。

その昔、人は皆、「ピンピンコロリ」と死にたい願っていた。
今は、その自分が死ぬことが分かって、痛みと格闘するため、準備をする間もなく死をむかえるようになってきた。そのれにもかかわらず、日本人は、死から、遠いところにいて、意識することが、日常になくなっている、という。

そんな日本人に、ちょっとした警告をしらせてくれている。
そんな著作なのだ。

市民運動から総理大臣しめくくり

2010-06-14 08:20:06 | Weblog
地道な小さな自治体から登りつめていくには、限界があったのだろう。
その人物の資質もある。
小さな自治体から生まれた議員は、その器でしかない。
中央に通じる人物にはなりえない。

また、その時の時代が必要としていた市民運動というのも、もうすでに、いまに時代では、必要とされていないという風にも思える。
それは、こう思う。

人口40万の自治体に、初めて市民運動から議員を送り出した時、その人選は、一人の強い人の意見で、行われた。人間性をほとんど知ることもなく、支援する体制は整っていった。本人も市民運動がなんたるかもよくわからず、表に出て、顔を売り込んでいった。私を含め周囲の人たちは、違和感を感じながらも、走り出した車に乗らざるを得ない。
市民運動のなかから、次々に議員を生んでいくその流れを止めたくなかったのだろう。

そして、ぎりぎりの当選ラインながらも、勝利を得た。
そこからが本当の市民運動になる。

でも、その人も自分の周囲には、イエスマンをおいて活動をしていた。
同じ目線であったはずのその議員となった人は、少しづつ市民運動目線からずれていった。それは、当然といえばそう当然かもしれない。4年後の2期目の時には、全く違う人達が、支援していた。その時には、別の市民運動の団体の中から、雨後のたけのこのごとく、立候補をして、議員が誕生した。それら、当選して議員となった人達は、その根本は、市民運動のはずであるけれど、連携を組むことはなかった。お互いの活動の理念がちがうのであろう。

そして、3期目の挑戦の時には、落選していた。


もう、市民運動という言葉を耳にしなくなっていた。
時代が市民運動というものに目をむけなくなってしまった。

菅総理がここまできたのは、はじめから、中央での進出に目を向け、ずれない支援者をおいていたところにある。そして、男であることも、重要なひとつ要因でもあるようにも思う。

市民運動から総理大臣つづき,つづきのつづき,続

2010-06-13 08:43:58 | Weblog
大変な決心をした彼女だけれど、、、
じゃあ、、私は、何故、彼女を町制に送りたかったのだろうか、、、
そのことを考えると、あやふやになってきた。
それに、どこか秘密をもっているのも、常にご主人が口出しをしているのも気になっていた。

無事、数票の差で当選をした。
どこか、違和感を感じていたことは、翌日から、様々な形で、現れてくる。
議会での、発言のタイミングをなかなかつかもうとしない。
同じ女性議員と仲良くして、連絡を取り合おうとしない。
反対の反対ばかりでは、何も生まれない。

挙げたら、不満は次々と生まれてくる。

そんなことを、解決するまもなく、今度は、人口40万人の市に議員を送ることになった。その次は、10万人の市の議員の誕生も言い出し始めた。
それらが落ち着くと、県議会議員を誕生させた。
やがては、私達の中から、中央で活躍する議員を送りたいと言うようになっていた。

ところが、そうはいかない。市民運動の中から生まれた議員は、議員活動をしていると変化してくる。その議員に批判的な意見を持つ人達は、はみ出されるようになってきた。
イエスマンがいることが、議員活動をする上で重要なこととなる。批判意見は、いらないのだ。批判は、世間一般からたくさん受けるから、同じ仲間からは、いらないのかもしれない。当然のごとく、議員誕生の際にかかわった人達は、其のほとんどが離れていった。私もその一人だった。

ああ、、、
私は、愚痴をここに書いているのではない。

市民運動から、いきなり中央を目指して、挫折をしながらも総理大臣にまでいく。
そんな人をみていると、
私は、あの時あの時代、公共工事にばかりに頼る地方行政に疑問を感じ、福祉がおろそかになる町をなんとかしたいと思ったのではなか、、主婦感覚のレベルでなんとかしたい、、、そんなことをここで回想していたのだ。




市民運動から総理大臣つづき,つづきのつづき

2010-06-12 08:47:52 | Weblog
街頭にたって演説するのは、共産党の候補者以外初めてのこと。
全くの無所属の人が立候補するのが、町制始まって以来のこと。

保守系の候補者の中には、名前だけ、まるで習字のお手本のように名前だけ書いたポスター、ポスターさえも貼っていない候補者など。そんな候補者でも、きっちり当選する。

そういう中での選挙戦だった。

街頭にたっている私達の代表者の演説するその姿は、立派というと、、、
それは、きれいごと、、、
本当は、、、、
側で見ていると、まるで、一枚一枚洋服脱いでいく、、そんな姿に見えてきた。
そして、、、私は、、、、
「そんなこと、とてもできない、彼女は、想像以上のことを決意したのだ」

市民運動から総理大臣つづき,つづき

2010-06-11 08:23:50 | Weblog
名簿を集めることは、大変だった。
「分かった、今回は、1票はいれてあげるけど、名前は書かんとって」
つまり、表向きに名前を出しては、近所の手前があって困るという。
それでもいい、理解して、票を入れてくださるのであれば、、、

1軒1軒訪問するのも、限られた。
「来ては困る」「無理」門前払いは当たり前、、

町外からの応援は、ぎりぎりになって、来た。
選挙選は、活気のあるものになった。駅前の演説、選挙カーでの連呼、、、
静かな町が賑わった。
でも、私は、その候補を見ていて、仲間ではあるのだけれど、どこか覚めた目でみている自分に気が付いていた。

市民運動から総理大臣つづき

2010-06-10 08:15:11 | Weblog
今から、10年位前、地方自治体が合併をしていない頃、
人口1万人位の町では、議員が20人位いた。
そのほとんどが、保守系の議員で、なんの波風も立たず、
それが町民にとって良い事か悪い事なのか、何も問うことなく議会で成立していた。
気が付くと、町内のあちこちで、そんなに必要とされていない公共工事が行われていた。

生活を送るうえで、自分達の声を議会に届けるには、署名活動をして伝えるのだけど、それの声は、ほとんど議会に届くことはなかった。

そこで、「もう、これは、自分達の中から、議会に送るしかない」、、議員になろうという人はいる。でも、「ジバン、カンバン、カバン」が何もない。
カバン、、、お金、、、幸い、供託金は、いらなかった。つまり、なりたいと思う人は、お金がなくてもたてるのだ。
ジバン、、、地元出身では、ないので頼りになる親戚はいない。
カンバン、、ただのいち主婦だから、なんの知名度もない。

もう、ないないづくめだ。
200票あれば、当選ラインになる。
たった3人からはじめた。
本当に、1票1票なんとかひろっていった。



市民運動から総理大臣

2010-06-07 15:10:50 | Weblog
菅さんが、とうとう総理大臣になった。
資産も2500万円というのも、親しめる数字で、いいと思う。

若い頃に市民運動をして、そこから政治を志して、とうとう頂点に上りつめた。

変わらない、たとえ本人が変わろうとしてもそれを許さなかった支えがあったから、ここまできたんだと思う。

権力というのは、つかんでしまうと、つかんだ本人が変わってくる。
自分の周辺には、イエスマンをおきたくなる。

そんな風に変わる人を何人かみてきた。
十数年前、小さい自治体で、いくら声をあげても届かないもどかしさを
市民運動の中から、その声の代表者として、議員を送り込んだことがある。

そういう市民の声の代表者だったはずなのに、権力をつかむと、皆んな初心を忘れて、変わってしまった。
その変身振りは、市民運動に対する、限界を感じさせられて、一気に興ざめしてしまうことになった。
そんなことを思い出していた。

でも、菅さんって、本当は、頂点にたつタイプではなくて、参謀タイプだとおもうのだけど、、、自分に近い考えの人を盛り立てるほうが向いているのではないかとおもうのだけど、、、