「Morioka Chronicle」として始まったシリーズの、第2回目のテーマには一体何を選ぶのか? 何を選ばなければいけないのか? 盛岡にこだわりながら、単なる偉人伝にならないような、それでいて、盛岡の人をあまねく引きつけてやまないような、そんな題材は無いものか? と、そんな話し合いをしていたときに、タイムリーなことに盛岡バスセンターが新装なって開業するという。
これはタイミング的にもバスセンターだろう、ということになり、それならば、新しくなったものではなく、かつての昭和レトロ感あふるる、旧盛岡バスセンターにまつわる話にしなければならないだろう、という風に話は進んだ。
となったら、バスセンターにまつわる思い出を公募しましょう。もちろん実行委員会には、運営会社である盛岡ローカルハブ関係者にも入ってもらいましょう。さらにはバスセンターに長年勤めている方に取材もしましょう、ってな感じで骨格が固まっていった。
まあ聞いてみるといろいろ話が出てくるわ出てくるわ。中でも面白かったのは、窓口前のベンチに入れ歯が忘れて置かれていた話。ベンチにぽつんと入れ歯が置かれている。シュールな光景だっただろうなぁ。
それから、2階の店舗が全て撤退し、営業していなかった頃、若いカップルがそこに住んでいたというエピソード。「危険」と書いた段ボール箱が置いてあり、そこに生活用具が入っていたという。こっそり入り込んで、そこで生活していたわけだ。通報を受けた警察が踏み込んだとき、男は女を置き去りにして逃げたという。
また、モリシミの役者として常連だったKさんは、かつて旧盛岡バスセンターで立ち食いそばを提供していて、新しくなったバスセンターでも、そば屋を経営している。なので生き字引のようにそこら辺のエピソードをたくさん持っていた。
この他、コーヒーショップやたこ焼き屋、時計店、階段でじゃんけんグリコをする小学生etc.……と、たくさんのエピソードが集まり、それをモチーフにして3つの短編演劇が作られた。それにオープニングと各場のつなぎ、エンディングを加えて一本の芝居として構成する。そうやって完成したのが「Morioka Chronicle2 盛岡バスセンターものがたり」である。
今回は、戯曲の執筆や演出を大幅に入れ替え、若手を中心に登用して芝居作りを進めた。いろいろと苦労はあっただろうが、まずまず良い成果が出たのではないだろうか?
作品そのものには、それほど心配はしていなかったのだが、集客についてはかなりヒヤヒヤものだった。1週間前で、1ステージにも満たないチケットの売り上げ枚数。これはもう「ヤバい!」以外のなにものでもない。空席の目立つ客席は、赤字の不安もさることながら、役者のやる気にも直結する。ということは芝居の出来にも影響してしまうのだ。
コロナ以降、直前にチケットの売り上げ枚数が急増するという傾向は出てきていたのだが、それにしたってヒヤヒヤである。
とはいえ、結果として、それなりに満足の行く客席になった。ありがたいことである。それはやはり、盛岡人の心の中に「盛岡バスセンター」が深く深く根を下ろしていた、ということに他ならないだろう。
新しい盛岡バスセンターも素敵なところだが、記憶の中のバスセンターは、いつもセピア色の哀愁を帯びて、盛岡の人の心の中の1ページを彩っているのだ。たぶん。
市民参加型の舞台、劇団モリオカ市民5年ぶりの通常開催が終了した。2019年に新シリーズ「Mrioka Chronicle」となってから2度目の公演だ。
モリオカにこだわった題材で、偉人伝とか歴史上の人物とかからは、あえて外れ気味の題材を取り上げるというコンセプトで、2年に一度の公演を行っている。公演は2007年に第1回が行われているのだが、その始動はさらに2年前、2005年に遡る。ざっと振り返ってみよう。
大体モリシミ(劇団モリオカ市民を略してこう言う)を説明しようとすると、何となく立ち上がりから語らないと、概要というかそういうことがわからないので、ざっくりと説明してみよう。と、ざっくり説明してる間に、大体1回分の分量は書いてしまうので、本題に入る前に終わりそうである。そんなことを書いてる間に説明しろって? そのとおり!
2007年の「冷麺で恋をして」から始まった、盛岡三大麺シリーズは、まさにそのコンセプトを表す真骨頂。三大麺シリーズで芝居を作ろうなんて、盛岡以外では考えられまい。これは「わたしのじゃじゃ麺」「わんこそばの降る街」と続き、2011年3月、東日本大震災の直前に完結した。
続いてのシリーズを考えねばならないときに震災が起こった。これは避けて通ることが出来ないと考え「あの年の盛岡」シリーズを立ち上げた。明治、昭和、そして東日本大震災津波の年に盛岡ではどんなことがあったのか? ということを掘り下げる芝居だった。
2年に一度の公演なので、明治三陸大津波の年(1896年)の盛岡をテーマに公演をしたのが、2013年。昭和三陸大津波の年(1933年)を取り上げたのが2015年。そして、東日本大震災の年を取り上げたのは2017年だった。
内陸の盛岡なので、直接津波を取り上げることは出来ない。しかし、盛岡に、当時どのように第一報が入り、どんな支援が行われ、どんな風に復興と関わってきたのか? そんなことを調べ、演劇にするのは、必ず何かの発見につながり、それは未来への財産になるはずだ。そんな直感のもと、企画を立ち上げた。
実行委員に反対する意見は無く、スムーズに企画が立ち上がっていった。
しかし、口さがない外野はいるものである。ちらほらと苦言が聞こえてきた。(難癖とも言う)しかしこれについては、いささかも揺らぐことなく、まずは1896年の盛岡を調べ始めると・・・と、これを掘り下げてしまうと、それこそ長大になってしまうので、ここでは深入りしない。
シリーズ完結まで6年、「あの年の盛岡2011」を上演する頃には、外野の苦言は全く聞こえなくなっていた、と思う。
で、次のシリーズは「Morioka Chronicle」となり、まず初めに取り上げたのは、現在「盛岡城跡公演」と、重箱読みもさもしげなことになっている「岩手公園」。どんな経緯で岩手公園が出来上がってきたのか? そんなことを群像劇で描いた。
なんて概要を説明してる間に、大体一回分終わってしまったではないか! バスセンターのかけらも出てきてねぇ!
というわけで続く。
最近何かと話題のAI、Chat GPTを使ってみた。坂本龍一が亡くなったので、ふと以下のような質問をしてみた。
大島渚は、映画作品において同性愛を扱うことが多かったため、「同性愛者である」と誤解されることがありますが、実際には自身が同性愛者であると公言したことはありません。
大島渚が同性愛を扱う映画を多く手掛けた理由は、彼が映画監督として社会的少数者やマイノリティーに共感を持ち、そのようなテーマに関心を持っていたことが挙げられます。また、大島渚は自身の映画において、人間の欲望や性的な表現を重視し、それが同性愛を扱う作品が多い理由の一つでもあります。
さらに、大島渚は映画を通して社会に対して批判的な立場をとり、時代の風潮や偏見を問題視することが多かったため、同性愛をテーマにした作品を制作することで、当時の同性愛者が抱える社会的な問題に対して問題提起を行うことができたとも考えられます。
したがって、大島渚が同性愛をテーマにした映画を多く手掛けた理由は、自身の思想や芸術性、社会的責任感などが重なり合った結果であり、単純に「自身が同性愛者であるから」という理由ではありません。
とまあ、なんというか、そうだよね、みたいな答えが返ってきた。んでは架空の劇団について質問してみようと思った。
盛岡の架空の劇団についてですね。架空の劇団ということで、実在する団体ではありませんが、想像上の劇団として、以下のような特徴を持つかもしれません。
この架空の劇団は、盛岡市を拠点にしていることが特徴の一つです。盛岡市は、岩手県の県庁所在地で、自然豊かな場所としても知られています。劇団の公演は、盛岡市内の劇場や文化センターなどで行われ、地元の人々や観光客など、様々な人々に観てもらうことができるでしょう。
また、この架空の劇団は、現代演劇を基本としながらも、古典的な演劇やミュージカルなど、幅広いジャンルの作品を取り扱っていることが特徴です。特に、岩手県や東北地方の文化や伝統を取り入れた作品も多く、地元の人々に親しまれています。
劇団の役者たちは、地元の人々から愛される存在として、地域の行事やイベントなどにも積極的に参加しています。また、役者たちの個性豊かな演技や、劇団独自の演出なども評判で、多くの人々から支持されています。
以上が、架空の盛岡の劇団についてのイメージです。ただし、架空の存在であるため、実際の劇団とは異なる場合があります。
申し訳ありませんが、私が知る限り、実在する盛岡の架空の劇団は存在しません。架空の劇団とは、フィクションの世界に存在する団体であり、現実世界での実在するものではありません。盛岡には、多くの実在する劇団がありますが、架空の劇団については、私が知る限り存在しません。
いつの間にか年が明けてましたおめでとうございます。そんなわけで今年もよろしくお願いします。今年は暦の並びが4日から働け! という感じで、わたしもご多分に漏れず働いております珍しい。
恒例の子ども演劇ワークショップで年明けの演劇活動が始まっていて、それだけでもなく、もりげき八時の芝居小屋で高校演劇リベンジ! チャレンジ! という企画の一応プロデューサーと言うことになってる。
昨年も同様の企画だったのだが、昨年は1月29、30という日程で募集したところ、1校しか応募がなかった。今年は年明けすぐの5、6、7という、普通に考えれば参加しにくい日程なのだが、さにあらず。現役高校生は、案外この日程の方が参加しやすいようである。昨年はどうやら模試の日程とかぶっていたと言うことで、参加できないようであった。
今年は3校の応募があり、その他にも問い合わせが2校あって、やはり年明けすぐの方が参加しやすいのだなと思った。ただ、3校参加で3作品となると仕込みが大変だということに、当初思いが至らず、そのためにアドバイザーのGちゃんにはものすごく頑張ってもらうことになった。ありがたいと同時に申し訳ない。
今回の子ども演劇ワークショップ冬組のテーマは「冬組今昔物語」というわけで、おとぎ話、昔話をテーマにしている。なので舞台には松羽目、そして定式幕に柝の音で開演を迎えようと計画している。
若いお父さんお母さんには、どれもなじみのないものだろう。折角だからこういう機会になじんでもらっておくのも悪くないと思うのだ。
面白いもので、やかましくて落ち着かない小学生も、柝の音が響き渡るとどうしても聞き入ってしまうようで、妙に静かになる。これは新しい発見だった。これからは静かにしてもらいたいときに柝を使うというのも悪くない。
さらに附け打ち(歌舞伎などで、バタバタっと鳴るやつ)なども入れて、和の雰囲気を高めてみようと思う。七五調のセリフも取り入れてみよう。ちょっと楽しみ。
2年ぶりにお盆の帰省をしてきた。タイトルが仏具屋さんだからといって、お盆の帰省にそれほど内容が関係あるわけではない。
次の芝居で小道具にロウソクが必要なわけです。本火を使うロウソクだといろいろと面倒なので、LEDで炎がチラチラ揺らぐタイプのものがあったと思ったので、それを使うことにして小道具担当とか舞監とかと、主にネットで探していたのだが、なかなか良い具合のが見つからない。
とりあえず仏具屋さんを見て回ってみようと思い、近場から攻めてみる。
事情を話し、相談してみると「この間まではあったんだけど、お盆で売り切れちゃった」とのこと、何種類か見せてもらったのだが、やはりちょっと小さい。すまなそうに「一週間くらいすれば入ると思うんだけどね」と言ってくれたが、それでは心許ないので、お礼を言いつつ店を出た。いろいろと見せてくれたりもして親切。でもあんまり商売っ気はない。
そして二軒目はかつてタダでお鈴をもらってきたことがある、仙北町あたりの仏具屋さん。
何でタダでお鈴をもらうことになったかって?
それは遠野物語100年のイベントでのこと。NHK盛岡放送局で、影絵と子ども語り部のコラボ、それからアナウンサーの語りでイベントをやることになり、その影絵と子ども語り部のコラボ部分の演出、ということでお話が来て、まあそういうのの演出をしたわけです。
影絵は、その当時の岩大特美の学生さんが作ってパソコンで動かすというもの。子ども語り部の話に合わせて影絵を動かすわけですね。で、その話に効果音なども付けようってんで、どうせなら生音の効果音にしようと思い、いろいろ楽器的なものや楽器じゃないけど音が鳴るものとかを探したりしていた。
ホースをぐるぐる回すと風っぽい音が出たり、ビブラスラップを使ったり、まあそんな流れで、仏壇のお鈴も欲しいなと、飛び込んでみた仏具屋さん。まあ、楽器として使いたいみたいな事情を話すと「これ、錆びちゃって売り物にならないから上げます」と言われ「いいんですか?」とありがたく頂戴してきたことがある仏具屋さん。
そんな縁があった仏具屋さんに飛び込む。店内は薄暗く、開店してるんだか閉まってるんだかわからない雰囲気なのだが、入り口が開いているということは営業しているのだろう。久しぶりなので恐る恐る足を踏み入れると、どうも昔と比べて品揃えが薄い。確か昔はもっといろいろあったはずだがと、奥へ進むも、店の人が出てくる雰囲気はない。
外は結構な雨。店の中も・・・雨? あちこちにバケツとかそういったものが置いてあり、ポチャンポチャンと水音がしている。上を見ると、天井板なんかもあちこちはがれていて、仏壇なんかもかろうじて雨のかからないところに置いてある、という感じである。
奥の方まで進むと、店主と覚しきご老人が「いらっしゃい」と、どういうわけかズボンのチャックを上げながら、ベルトを締めつつ迎えてくれた。
「LEDのロウソクありますか?」と聞くと
「?%~#&!?」となんだかよくわからないヒアリングをされたような答えが返ってきた。とっさのことだったので、なんと聞き間違えられたのか忘れてしまったのだが、なんだかとんでもなくかけ離れたことを言われた。
でまあ、よくよく説明して聞いてみるとやはり「お盆で売り切れちゃった」とのこと。人はお盆前にLEDロウソクを仕入れるものらしい。ここでも「一週間くらいすれば入ると思うけど」という。
「ホーマックとかでも売ってるよ」と親切にも教えてくれ、「ありがとうございます、行ってみます」と店を出た。やはり商売っ気はない。
薄暗い店内に仏壇仏具が雨漏りを避けて陳列され、あちこちのバケツやモップを洗って絞るローラーが付いてるやつ(名前を知らない)にたまった水と雨漏りの水音が響く様子は、まったくもってつげ義春の世界だった。
以前のつげ義春世界への扉は、岩手町のとある食堂だった。もう三十年前くらいになるだろうか?
のれんをくぐり、引き戸を開けると、昼間からビールを飲んでしゃっくりをしている小柄で目のぎらぎらした第三世界猿みたいな老人と、その隣のテーブルで、にこにこしている老婆がいた。
さらになんとも言えない据えたような臭いがして、店の人が出てくる前にそっと扉を閉めて出てきた思い出がある。まったくもってつげ義春世界だった。
岩手には、時折つげ義春の世界が口を開けている。